サッカーの話をしよう
No.456 生き死にの問題
アジアのサッカーが、かつてない危機に襲われている。今月に予定されていたアテネ・オリンピックの1次予選12カードのうち3つが延期となり、さらには、4月17日から30日までタイのバンコクで開催されることになっていた女子アジア選手権も延期された。
オリンピック予選のうちイラク対ベトナムは、もちろん、戦争勃発による延期だ。アジア・サッカー連盟(AFC)は、バグダッドのイラク・サッカー協会との連絡がつかず、見通しはまったく立たないと発表している。
残りのオリンピック予選2カードと女子アジア選手権の延期は、新型肺炎(SARS)の流行が原因だ。香港対スリランカとチャイニーズタイペイ(台湾)対シンガポール。このうちスリランカを除く3カ国が、SARSの深刻な流行地とされている。
サッカーが脅かされているのは、アジアの大会だけではない。国際サッカー連盟(FIFA)は、アラビア半島のUAE(アラブ首長国連邦)で3月25日に開幕する予定だったワールドユース選手権の延期を、イラク戦争勃発の2週間も前に決めた。
ヨーロッパでは、イングランドを迎えるリヒテンシュタインのスタジアムの対テロ警備設備に問題があるとして延期が検討された。この試合には最終的にゴーサインが出て無事開催されたが、セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)対ウェールズのヨーロッパ選手権予選試合は、会場に予定されていたベオグラード市内の政情不安が原因で8月20日に延期された。
戦争、政情不安、正体不明の新感染症...。こうなると、普通にサッカーができる状態がいかにありがたいか、つくづく考えさせられる。
「ある人びとは、サッカーは生か死かの問題だと言う。彼らは間違っている----。サッカーは、それよりずっと重要だ」
そう語ったのはビル・シャンクリー。イングランドの弱小クラブ・リバプールを、ヨーロッパ・チャンピオンにまで育て上げた伝説の名監督である。サッカーに生き、人生をサッカーに捧げつくした人物の魂がこもった言葉だ。
しかしもちろん、サッカーは生命を賭して行うようなものではない。実際に生命の危険があるような状況で、サッカーの試合など行うべきではない。オリンピック予選やワールドユース選手権がいくら重要でも、生命の重さの前では羽毛のようなものだ。
先月、日本サッカー協会はアメリカ遠征を直前で中止し、代わりに国内でウルグアイとの親善試合を開催した。
当初ウルグアイ戦が予定されていた3月26日のサンディエゴでは、日本戦とのダブルヘッダーの予定だったメキシコ−パラグアイ戦が単独で予定どおり行われ、アメリカは急きょベネズエラを招待して29日にシアトルで親善試合を行った。
日本が遠征中止を決めたのは、イラク攻撃が始まって3日目の3月22日のことだった。その後、武力行使に対抗するテロなどどこでも起こっておらず、大リーグ野球をはじめとしたアメリカ国内のスポーツも予定どおり開催されている。しかしあの時点で、アメリカ遠征が安全だと言い切れる人などいただろうか。
1913年生まれのシャンクリーは、第二次世界大戦で選手生活の最も充実すべき時期を失った。戦後すぐ引退して監督業に転身したが、「生き死によりずっと重要だ」というほどサッカーに打ち込んだのは、戦争による自己の選手人生の喪失感とともに、サッカーだけに集中できる平和な時代のありがたさを身にしみて感じていたからだろう。
一日も早く戦火が止み、一刻も早く不気味な感染症が撲滅されることを祈りたい。
(2003年4月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。