サッカーの話をしよう
No.457 進歩のない人類
国内ではひとりも感染者が報告されていない病気を理由に、外国チームが来日中止を一方的に決めた。海外の中国人街では、商店の売り上げが7割減だという。
新型肺炎(SARS)をめぐる世界の反応から、ヨーロッパでの14世紀のペスト大流行を思い出したのは私だけだろうか。正体不明の流行病に、「ユダヤ人が井戸に毒を流したからだ」といううわさが広まり、ひどい迫害が行われたのだ。現時点のSARSも、「正体不明」という点で当時のペストとまったく同じだ。その不気味さにおびえ、差別や迫害が生まれる。
無知で非科学的で自己中心的な人間の不安に根ざしている点では、人種差別も同じだ。手塚治虫の『鉄腕アトム』では21世紀の差別の対象はロボットのはずだったが、実際には人種差別がまだまだ根絶されない。それどころか、ヨーロッパのサッカー界では、ここ数年、選手同士やファンからの差別発言が急増し、大きな問題になっている。
「人種のるつぼ」といわれるブラジル。現在は、肌の色を超えてスター選手たちが敬愛され、それがこの国のサッカーの強さにもつながっているが、過去には、やはり人種差別の歴史があった。
20世紀はじめ、サンパウロやリオなどに次々と設立されたスポーツクラブは、富裕な白人たちの独占物だった。リオデジャネイロの有名クラブが1人の黒人選手を入会させようとしたところ、中心選手や会員の大半がクラブをやめてしまったという。
そうした「常識」を変えたのは、褐色の肌をもったひとりの混血選手の活躍だった。アルツール・フリーデンライヒ、1892年7月18日生まれ。ドイツ人の父と混血のブラジル女性の母をもつ彼は、17歳のときにサンパウロ市のドイツ系クラブでサッカー選手としてスタート、やがてその技術と得点能力は全国に知られるようになり、ビッグクラブに移っていくつものタイトル獲得に貢献した。
クラブによっては厳しい人種差別を行っていた時代、彼が差別主義者たちを沈黙させたのは、父から受け継いだドイツ人の血ではなく、その驚くべき技術によってだった。
彼のドリブルは、ブラジル・サッカーの「教師」だったイギリス人たちが見せたものとはまったく違っていた。柔らかなボールタッチ、フェイント、引き技などのトリックを織り交ぜて相手を抜いていくプレーは、芸術的でさえあった。さらに、カーブをかけてのパスやシュートは、見る者を驚かせた。後に「ブラジル・サッカー」、さらには広く「南米サッカー」の特徴となる独特の技術の生みの親が、彼だったのだ。
1914年にイングランドから来訪したエクセター・シティとの間で開催されたブラジル代表の最初の試合にも出場、卓越したプレーで2−0の勝利に導いたフリーデンライヒだったが、当時は代表の試合も少なく、通算22試合、10ゴールにとどまった。
しかしクラブでの活躍は途方もないものだった。1935年に43歳で引退するまでに、1329という得点数を記録しているのだ。世界で公式に認められた生涯最多得点記録だ。
フリーデンライヒの活躍に刺激されて、1920年代からブラジル中のクラブで黒人選手の活躍が見られるようになり、やがて38年ワールドカップで得点王になったレオニダスなどのスターも生まれた。それは、この国での黒人の地位向上と、人種差別の消滅に大きな役割を果たした。
フリーデンライヒは、1969年に77年の生涯を閉じた。もし彼が、いろいろな差別が横行する21世紀初頭の世界を見たら、「なんだ、何も変わっていないんだな」と思うに違いない。
(2003年4月16日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。