サッカーの話をしよう
No.468 マルクビビアン・フォエの死
カメルーン代表のMFマルクビビアン・フォエは75年5月1日生まれ。まだ日の高いリヨンのジェルラン・スタジアムでコロンビアと対戦した日、28歳の若さだった。
恐ろしい光景だった。後半のなかば、何の前触れもなく、突然、彼はピッチの中央で倒れた。接触プレーがあったわけではない。ボールははるか遠くにあった。
最初に異常事態に気づいたのは、コロンビアのDFイェペスだった。白目を剥き、ぴくりとも動かないフォエを見て、彼は即座に大声でドクターを呼ぶ。救急医療班とドクターがかけつけ、様子を見ると、わずか2分でピッチ外に運び出す。試合が再開される。その脇で、懸命の救急措置がとられる。しかし数分後、再び担架に乗せられてスタジアム内の医務室に運ばれるとき、フォエの右腕はだらりと垂れ下がったままだった。
国際サッカー連盟(FIFA)の発表では、医務室に運ばれて人工呼吸や酸素吸入を行っている間に心臓が停止した。心臓マッサージや電気ショックなどの蘇生措置が続けられたが、ピッチで倒れてから約50分後の8時20分、フォエは短すぎる人生を終えた。
ワールドカップなどFIFA主催の大会で試合中に選手が死亡するような事故は皆無だった。スポーツは生命の躍動のために存在する。けっして命を賭して行うものではない。生命の危険を伴うスポーツ的行為は、「冒険」である。そしてサッカーは、断じてそうした種類の競技ではない。
しかし世界では、心臓トラブルによる死亡事故の報告がときおりある。イタリアでも、試合中に心臓停止した選手をピッチ内での蘇生処置で助けた例があり、以後、セリエAでは、蘇生のための機器が救急医療班の横に置かれるようになった。しかしこの大会では、そうした機器は医務室にしかなかったようだ。
フォエはカメルーンのエンコロで生まれ、19歳で94年ワールドカップに出場、その年にフランスのランスに移籍した。190センチ、85キロという巨体に繊細なテクニックを備え、イングランドのウェストハムに貸し出された後、リヨンに移籍、5月に終了した昨シーズンは、再びイングランドのマンチェスター・シティに貸し出されていた。
彼を知る人びとは、口をそろえて、「猛烈なファイターだが、ピッチを離れると寡黙で、心の優しい男だった。何よりも、周囲の人びとを幸福な気分にさせるすばらしい笑顔の持ち主だった」と語る。
若い選手が多かった今回のカメルーンのなかでは中心的な存在だった。体調があまりすぐれない状態で臨んだこの試合も、シェーファー監督がハーフタイムに「交代するか」と聞くと、「僕がチームを引っ張らなければならない」と気力にあふれた表情で語り、ピッチに戻っていったという。
彼の死をすべての人が悲しんだ。日曜日に行われた決勝戦は彼のために捧げられた。カメルーン・チームは彼の写真をもって入場し、監督やサブの選手たちは全員、背番号17のついたフォエのシャツを着た。カメルーンとフランスはいっしょに円陣を組んで両国国歌を聞いた。優勝したフランスのデサイー主将が、カップを受け取るときにカメルーンのソング主将を呼び、いっしょに受け取ったシーンは感動的だった。
しかし大事なのは、彼の死の原因を完全に究明し、けっして繰り返さないようにすることだ。試合前に何か原因があったのか。チーム医療の体制は万全だったか。所属クラブを含めた普段からの健康管理に問題はなかったか。そして、スタジアムでの救急医療体制に落ち度はなかったか。
マルクビビアン・フォエの魂を、世界の2億5000万人のプレーヤーのために生かさなければならない。
(2003年7月2日)
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