サッカーの話をしよう
No.469 緑のサンテチエンヌ
世界にはたくさんのクラブがあり、それぞれのクラブカラーをもっているが、「緑」は意外に少ない。その例外のひとつが、そのものずばり、「レ・ヴェール(緑)」のニックネームで呼ばれるフランスのASサンテチエンヌだ。
先月のFIFAコンフェデレーションズカップの大会中、私は初めて、フランス中部のサンテチエンヌに滞在した。なんども行ったことがあるが、これまでは数十キロ離れたリヨンに滞在して試合を見に行っただけだった。
パリからリヨン経由のTGV(フランス新幹線)で約3時間。550キロの旅行はあっという間だった。私の滞在中は連日気温37度の猛暑。町なかでも、日中は人影が少なかった。
人口は約20万人。かつては炭鉱の町であり、19世紀には、金属、機械、兵器など、重工業の中心地となってフランスの発展を支えた。しかし現在は、そうした「フロントランナー」の立場をはずれ、落ち着いたたたずまいを見せている。
この町の誇りは、フランス・リーグで最多の優勝10回を誇る「レ・ヴェール」、ASサンテチエンヌだ。
1920年に小売チェーン「カジノ」のクラブとして発足、その店が緑と白で塗られていたことから、緑のユニホームが伝統となった。「カジノ」は、いまでは全国に数多くのスーパーマーケットを展開する巨大チェーンとなり、現在もクラブを支える最有力スポンサーである。
クラブは順調に成長し、31年には自前のスタジアムを完成させた。初代会長ピエール・ギシャールは、このスタジアムに小売チェーンの創始者である父ジェフロワの名を冠した。スタジアムは今日、サンテチエンヌ市の所有に移されているが、「ジェフロワ・ギシャール」の名はしっかりと残されている。
57年、「レ・ヴェール」はフランス・リーグで初優勝を遂げる。クラブはここでスタジアムの大改修を決意、陸上競技用のトラックをつぶし、サッカー専用のスタジアムに変えた。改修はその後も続き、84年にヨーロッパ選手権を迎える前には、収容4万8274人の大スタジアムとなった。このスタジアムでミシェル・プラティニがハットトリックを達成、フランスはユーゴスラビアを3−2で下して初めてのメジャータイトル獲得に勢いをつけた。
「レ・ヴェール」自体は、60年代から70年代にかけて黄金期を迎える。この間に8回もの優勝を記録しているのだ。そして76年にはヨーロッパ・チャンピオンズカップで決勝に進出、バイエルン・ミュンヘンに敗れたが、ヨーロッパでもトップクラスの実力があることを示した。その活躍は、フランス・サッカー復興のシンボルでもあった。
チームの大半がフランス代表のレギュラーとなり、79年にはプラティニも加わった。しかし81年のリーグ優勝が最後のタイトルとなる。
82年、選手への報酬支払いで脱税していたことが発覚、以後、チームは急速な下降線をたどり、84年には2部に降格する。そして今日まで、ASサンテチエンヌは、1部と2部を往復する生活を続けている。
しかしそれでも、クラブは市民の誇りであり、ジェフロワ・ギシャールは今日でもフランスの主要なスタジアムのひとつであることに変わりはない。2部のゲームでも多くのサポーターがスタンドを埋め、フランスで最も熱狂的な応援が繰り広げられている。
余談になるが、Jリーグで唯一の「緑」のクラブ、東京ヴェルディも、このクラブとは無縁ではない。ヴェルディの「緑」は、70年代終わりにサンテチエンヌのユニホームをそっくりまねてつくったことから始まったものだ。
(2003年7月9日)
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