サッカーの話をしよう
No.470 レアルに生きるディステファノの魂
ジダン、フィーゴ、ロナウドに続き、ベッカムまで獲得してオフの話題独占のレアル・マドリード(スペイン)。多くの人が「20世紀最高のクラブ」と認める名門だが、実は、その20世紀の前半には、スペインでも抜きん出た存在とはいえなかった。
1956年から60年にかけて達成したヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズ・リーグ)5連覇の偉業。その栄光をもたらしたひとりのアルゼンチン人選手がいなければ、これほどの「王国」は築くことができなかっただろう。
アルフレード・ディステファノ。1926年7月4日、ブエノスアイレス市生まれ。地元のリバープレートとコロンビアのミリョナリオスで活躍し、1953年、27歳の年にスペインに渡ってレアルの一員となった。
背番号9をつけたセンターフォワード。彼は自由だった。スペインで5回も得点王になったが、ゴール前で待ち構えて得点するのではなく、自在に動いてチャンスをつくり、自らしめくくった。
ペレ、クライフ、マラドーナと並び、20世紀最高の選手のひとりと言われるディステファノだが、他の3人のような天才ではなかった。有名なサッカー選手だった父は、彼より、2歳下の弟トゥリオに期待を寄せていたという。しかしトゥリオは十代でひざを痛め、選手生活を断念する。
アルフレードの強みは、スピードと驚異的なスタミナだった。だからこそ、中盤に下がり、ときには守備に奔走しながら、大事な場面になると相手ゴール前に現れて決定的なシュートを放つという離れ業を演じることができた。
彼を得たレアルは、54年、20年ぶりにスペインの王座に就く。伝説のスタートだ。55年に始まったチャンピオンズ・カップは、まるでディステファノとレアルのためのものだった。厳しい国内リーグを戦いながら、レアルは彼の献身に率いられて5連覇の偉業を達成する。
その間に、レアルを苦しめた各国のエースを次々と獲得し、無敵の王国を築く。フランスのコパ、ハンガリーのプスカシュ、ウルグアイのサンタマリア...。現在に続く「王者のスタイル」だ。
そしてこのスター軍団に、ディステファノが魂を与えた。彼は、若いころから「サエタ・ルビア(ブロンドの矢)」と呼ばれていた。派手なスピード突破から生まれたものだった。しかし30代なかばにさしかかっても誰よりも走り、戦う姿から、「サッカーの労働者」という新しいニックネームが生まれた。彼はこの呼び方を大きな誇りと感じた。
彼は常にサッカーのことを考え、新しい戦術を発案しては仲間と実現し、試合の質を高めた。だがそれ以上に、日ごろの節制とハードトレーニングでよく知られていた。
「私のスタミナに秘密などない。若いころからサッカーが好きで、練習が何よりも楽しみだった。練習のときには、いつも自分を乗り越えようと努力した。グラウンドを10周走れと言われたら、決まって1周か2周余計に走った。他人に勝つことより、自分に勝つことが大事なのだ」
誰よりも早く練習場に現れ、いちばん最後に帰るのがディステファノであることは、レアルでは有名な話だった。練習中の真剣さ、集中力で、彼に勝る者はいなかった。
いま彼は、レアルの名誉会長としてファンや若い選手たちからの敬愛を集めている。それは、レアルが、彼の魂を失わず、それを伝統としている証拠でもある。単なる「スター軍団」ではない。真っ白なユニホームの下には、ハードトレーニングに裏付けられた「より強く」の渇望がある。
8月に東京でFC東京と戦うレアル。ディステファノの魂を確認したいと思う。
(2003年7月16日)
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