サッカーの話をしよう

No.483 ブカレスト再訪

 久しぶりのブカレストは「別世界」だった。
 日本代表の遠征を追って、チュニジア、ルーマニアへと、せわしない旅に行ってきた。ルーマニアの首都ブカレストは、トヨタカップ出場チーム取材のため86年秋に訪れて以来だから、17年ぶりということになる。独裁者チャウシェスクが君臨し、国民は悲惨な生活を強いられていた時代だった。
 アメリカドルの現金さえもっていれば、「ドルショップ」で何でも買えたし、ホテルのレストランで飽食することも可能だった。しかし現地通貨で買える物は、町には皆無といってよかった。商店の大半は、商品が底をついたまま休業状態になっていた。

 ルーマニアは元来、豊かな農業国だった。しかし65年に政権を握ったチャウシェスクは、黒海で石油が出たのを機会に70年代はじめに強引に工業化を進めた。だが油田はすぐに底をつき、同時にオイルショックが世界を襲った。工業を維持するためにソ連から高価な石油を買わざるをえなくなり、ドル建ての支払いが重なってルーマニア経済は破綻へと向かっていく。
 当時のヨーロッパでは珍しかった温室設備を備えた農業は、冬でも豊富な野菜を生産したが、それはすべて西ヨーロッパに売られ、獲得した外貨はソ連への石油代金支払いとチャウシェスクの私腹を肥やすことで消えた。
 秘密警察や密告制度でチャウシェスクが恐怖政治を敷くなか、国民は零下10度の真冬にも暖房もなく、ごくたまにパンが売りに出されれば長蛇の列を作って買うという生活を強いられた。

 当然、当時のブカレスト市民は一様に暗い顔をしていた。この年の4月には、隣接するウクライナのチェルノブイリで大規模な原発事故が起こり、雨が降れば死の灰の懸念もあった。唯一の明るい話題は、国軍のクラブである「ステアウア」が東欧のクラブで初のヨーロッパ・チャンピオンとなったことだった。
 その3年後の89年12月、弾圧されていたハンガリー系住民の蜂起をきっかけに大規模な市民デモが起こり、国軍がそれを支援したことでチャウシェスクは政権から追われ、処刑された。
 一方、チャウシェスクの秘密警察のクラブが「ディナモ」だった。日本がルーマニアと試合をしたのが、ディナモのスタジアムである。収容は1万6000人。この国の「2強」でありながら、5万人のスタジアムをもつ国軍のクラブ、ステアウアとの人気の差があるのは当然だった。

 革命後のルーマニアは経済の立て直しが順調には進まず、物不足も解消されなかった。しかしここ数年で大きく変わった。街道には大きな広告看板が並び、街なかは豊富な商品を扱う店が軒を連ねている。スーパーマーケットには新鮮な野菜や肉が積まれている。レストランでも、豊富なメニューが用意されている。そこには、ヨーロッパのどの都市とも変わらない、普通の市民生活があった。
 制服から解放され、ジーンズ姿になった中学生や高校生の表情が明るいのが目につく。彼らの多くが最も熱心に勉強しているのが英語だ。言葉さえできれば、仕事のチャンスは大きく広がるからだ。そして、20年間近い恐怖政治の時代を生き抜いた年配の人びとは、一様に穏やかな表情をしていた。
 経済はまだ安定したとはいえない。インフレも激しい。しかしもう盗聴や密告にびくびくすることはない。若者たちが明るい表情で前向きに勉強している限り、生活はどんどん改善されるだろう。
 日本代表に対する心配より、ルーマニアという国、その国民、ブカレスト市民たちのことが心を占め、街を歩くたびに「本当に良かったな」と思う数日間だった。
 
(2003年10月15日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

アーカイブ

1993年の記事

→4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1994年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1995年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1996年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1997年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1998年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1999年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2000年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2001年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2002年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2003年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2004年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →9月 →10月 →11月 →12月

2005年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2006年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2007年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2008年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2009年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2010年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2011年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2012年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2013年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2014年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2015年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2016年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2017年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2018年の記事

→1月 →2月 →3月