サッカーの話をしよう
No.494 経験を力に
「美しい」と思った。
元日に行われた天皇杯全日本選手権の決勝、セレッソ大阪対ジュビロ磐田で見せた磐田FW中山雅史のプレーだ。
67年9月23日生まれ、36歳。故障から回復したばかりの中山は、後半22分にピッチに送り込まれた。スコアは0−0。流れは完全にC大阪にあった。ところが中山はすべてを変えてしまう。
最初のボールタッチはヘディングだった。ゴール前で落としたボールがグラウに渡り、そこから前田のヘディングシュートが生まれた。以後、中山がボールに触るたびに、磐田にチャンスが訪れた。オーバーヘッドキックのシュートもあった。4回目のタッチでは、逆に、ゴールに飛びかけていた味方のシュートを体でブロックしてしまった。
そして6回目のボールタッチ、右サイドに流れながらロングパスを受けたところから、磐田の決勝ゴールが生まれる。ピッチに立ってからちょうど4分後の出来事だった。
「中山が出場したからムードが変わった」などと言ったら、彼はきっと不本意だろう。そんなあやふやなものではない。的確なポジショニング、ゴール前でボールから離れながらマーカーの視野から消える頭脳的な動き、そしてスペースに走り込み、同時に味方のためにスペースをつくる戦術的なランニング。それは、「名人芸」と言っていいほどの熟練したプレーだった。サッカーというスポーツのなかで無秩序から秩序をつくり出すプレーを「美しい」と感じるのは、当然のことだ。
その秘密はどこにあるのだろう。もちろん、人一倍の努力、工夫、飽くことのない向上心が大きな支えになっているに違いない。しかしそれだけでは、このプレーは説明できない。彼が積み重ねてきた「経験」こそ、最大の力になっているのではないか。
サッカー選手にとって「時間」ほど残酷なものはない。技術面、肉体面でピークを迎えるのは20代の前半だ。しかしこのころはまだ経験が足りず、精神的にも十分な成熟を迎えていない。経験を積み、精神的にも熟するのは、30歳に近づくころだ。そこからは時間との戦いとなる。肉体面の下降を食い止めるためにあらゆる努力を払い、経験を積んでプレーの質を高めていく。そうやってサッカーというスポーツの「真実」に近づいた者だけに可能になるのが、天皇杯決勝の中山のようなプレーなのだろう。
この決勝では、もうひとり、中山の域に近づきつつある選手がいた。C大阪のMF森島寛晃だ。72年4月30日生まれ、31歳。キックオフから磐田を圧倒したC大阪の攻撃を、森島は惜しむことのない献身的な動きでリードした。守備に回ってもまったく手を抜かず、攻撃になるとふたりのFWを追い越して相手ゴール前に出て行く動き、その純粋な情熱は、感動的でさえあった。
試合前に最も注目されていたのは、C大阪の日本代表FW、21歳の大久保嘉人だっただろう。彼は何度も豊かな才能を発揮してスタンドを沸かせ、チャンスをつくった。しかしその才能と情熱も、無秩序から秩序をつくり出すという面で中山に及ばず、情熱の純粋さにおいて森島の比ではなかった。
大久保を批判しているのではない。彼には中山や森島のような経験もなく、精神的にも発展途上なのだから、当然のことなのだ。
天皇杯決勝が見応えのある試合になったのは、大久保のような若い才能の活躍だけでなく、中山や森島のような経験豊富な選手たちが、その経験をチームの勝利のためにフルに使い切っていたからだ。
若さは美しい。しかし経験を力として生かし切っている選手たちのプレーの美しさには、遠く及ばない。
(2004年1月7日)
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