サッカーの話をしよう
No.501 なぜサッカーが好きなのか
なぜ始めたかよりも、なぜ続けているかが重要----。常々、私はそう考えている。
私がサッカーを始めてからことしで38年になる。中学3年、15歳のときに出合ったサッカー。何でもいいから思い切り体を動かしたいと考えていた時期に、ワールドカップのテレビ放送を見たのがきっかけだった。
ところがサッカー部にはいってみると、あっという間にサッカーの「とりこ」になってしまった。大学を出ると脇目も振らずにサッカーの専門誌の編集部に飛び込み、以後30年間をサッカーの取材と報道で生きてきた。
不思議でならないのは、サッカーというシンプル極まりないスポーツが、こんなに長くかかわり続けても、いまも新鮮そのものだという点だ。
どんな試合でも、見るたびに新しいものが見つかる。ワールドカップ決勝戦のような最高クラスの舞台でも、自分で監督をしている女子チームの試合でも、それは変わらない。そして短時間でも自分でボールをけり、ゲームに参加したときの喜びは、何十年を経ても変わることがない。
最初に「サッカーの快感」を味わったのはいつだっただろう。そのひとつは、中学のサッカー部にはいってしばらくしてから、紅白戦で決めた初ゴールだったように思う。
そのころはFWだった。ペナルティーエリアの右にはいっていったとき、絶好のパスが足もとにはいってきた。私の足に吸い付くようなパスだった。ボールを止める。右足を振りぬく。すべてが、無意識のなか、自動的にこなされた動作だった。気がつくと、私の右足から放たれたボールはGKの右を破り、ゴールネットに突き刺さっていた。
そのあとどんなふうに喜んだか、まったく覚えていない。いまも脳裏に浮かび、心によみがえるのは、ボールがゴールに吸い込まれていくシーン、そしてそのときの何ともいえない「完成感」(変な言葉だが、そうとしか言いようがない)だ。この人生のなかで、自分自身の力で何かを成し遂げることができる----。大げさでなく、そんな思いを抱かせる瞬間だった。
いまもいっしょにボールをけっている仲間たちと、大学時代にチームをつくった。社会人になってからは毎週日曜日に数時間会うだけだが、本当にかけがえのない仲間になった。そのグループで過ごす時間は、メンバーの誰にも、宝物のように価値のあるものに違いない。
サッカーはひとりではできない。たとえどんな天才でもひとりで試合に勝つことはできない。仲間が必要だ。仲間と心を合わせ、力を合わせることが必要だ。そしてメンバーの誰もがチームのために自分に何ができるかと一生懸命に考え、努力したとき、かけがえのない仲間が生まれる。
試合を見る喜びも、プレーすることや仲間をつくることに劣らない。ヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ディエゴ・マラドーナ、ジネディーヌ・ジダン...。彼らが天才と呼ばれたのは、プレーするたびに何かを創造し、サッカーというゲームの新しい側面を見せてくれたからだ。
カズ(三浦知良)、中山雅史、森島寛晃など私が敬愛する選手たちは、いつもいろいろなものを教えてくれる。彼らのプレーを自分自身の目で見、彼らの魂を感じることができたとき、サッカーには勝利やタイトルを超越したものがあると信じることができる。
こんなふうに、私はサッカーを続け、愛してきた。
30数年間をサッカーとともに過ごしても、私が触れ、感じることができたのは、その魅力のほんの一部にすぎない。それぞれのプレーヤー、それぞれのファンには、それぞれの「愛し続ける理由」があるに違いない。あなたは、どうだろう?
(2004年3月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。