サッカーの話をしよう
No.515 ポルトガル
ポルトガルで、ヨーロッパ選手権EURO2004が始まった。
開幕戦でギリシャにまさかの敗戦を喫した地元ポルトガルだが、「黄金の世代」といわれたMFルイス・フィーゴ(レアル・マドリード)やルイ・コスタ(ACミラン)にとって悲願の国際タイトル奪取のチャンスだけに、これからの巻き返しが期待される。
ヨーロッパ大陸の西の端に位置するポルトガル。この国のサッカー発祥の地と言われるのが、カスカイスと呼ばれる大西洋に面した小さな港町だ。19世紀後半に国王が避暑に訪れるようになってから、海浜のリゾート地の顔ももつようになった。首都リスボンから西に25キロも離れた小さな町でこの国最初のサッカーの試合が行われたのには、それなりの理由があった。
1870年、イギリスの電信会社がポルトガル政府と契約し、イギリスからポルトガルを経てジブラルタル、そして地中海のマルタ島に至る海底電信ケーブル敷設の権利を得た。ポルトガルにおけるその作業基地が、このカスカイスの近くに置かれたのだ。
小さなコロニーを形成したイギリス人たちは、やがてテニス、クリケット、サッカーなどのスポーツクラブをつくり、熱心に活動を始めた。ポルトガル人だけで作ったチームと、そのイギリス人たちのチームが対戦したのが1888年。これがポルトガルで初めての公式戦ということになっている。
ポルトガルのサッカーは、1960年代に大きな隆盛を迎える。ベンフィカ・リスボンが61年、62年と2回にわたってヨーロッパのクラブ・チャンピオンとなり、代表チームも1966年ワールドカップで3位という好成績を残したのだ。
その両者の牽引車となったのが、エウゼビオ・フェレイラだった。かつてポルトガルの植民地だったモザンビークの首都ロレンソマルケス(現在のマプト)から、1960年12月、18歳で引き抜かれたエウゼビオは、驚くべき才能を示し、ゴールを量産してたちまちのうちにベンフィカをヨーロッパのトップチームに引き上げた。
エウゼビオのほかにも、ポルトガルのクラブや代表には、モザンビークやアンゴラなど、ほんの少し前までポルトガルの植民地だったアフリカ出身の選手が数多くいた。彼らの力こそ、60年代のポルトガルの強さの秘密だった。
しかし現在のポルトガル・サッカーの強さの背景にあるのは、まったく別のものだ。
国を挙げてサッカーに熱狂するポルトガルだが、ベンフィカ、ポルトなどの有名クラブでもイタリアやスペインの金満クラブと比べると質素なものでしかない。彼らに対抗して世界のスターを買い集めることはできない。
そこで、サッカー協会が始めたのが、若い才能の組織的な発掘と育成だった。80年代後半に協会の手でスタートした若手育成策は91年にワールドユース選手権(20歳以下)優勝という成果を生む。その中心選手が、フィーゴであり、ルイ・コスタだった。
人買いのように旧植民地からタレントを連れてくるのではなく、少年たちを地道に育てるプログラムだから、波はあっても、着実にタレントが輩出される。EUROの開幕戦でポルトガルの1点を決めたクリスチアーノ・ロナウドは、その最も新しい成果だ。リスボンのスポルティング・クラブで育ち、昨年、18歳の若さで、レアル・マドリードに移籍したベッカムの後釜としてマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれた。
少年たちを励まし、才能を伸び伸びと発揮させて育ててきたポルトガル。60年代の栄光の後、70年代には弱小国のひとつにまで落ちていたが、ビッグタイトルはもう手の届くところまできている。
(2004年6月16日)
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