サッカーの話をしよう
No.531 中田英寿復活
中田英寿が戻ってきた。
今季からイタリア・セリエAのフィオレンティナでプレーしている中田は、10月末のレッチェ戦、そして7日のインテル戦と、2試合連続でフル出場し、ともに見事なプレーを見せた。中田が躍動するのを、日曜深夜のテレビで本当に久しぶりに見た。
レッチェ戦では2アシスト。今季好調の相手に4−0の勝利を得るヒーローとなった。1−1で引き分けたインテル戦でも、労を惜しまない動きで攻撃をリードし、セリエB(2部)から復帰したばかりのフィオレンティナの上位進出に貢献した。
1点をリードし、後半、強豪インテルから猛反撃を受けるなか、中田はFWとして前線でボールを受け、相手DFの激しい当たりに耐え、しっかりと味方につないだ。本当に頼もしいプレーぶりだった。
中田は、3月31日、アウェーのシンガポール戦を最後に、日本代表のユニホームから遠ざかっている。長年酷使してきた足の付け根に痛みが出て、それがどんどんひどくなっていったからだ。
ジーコ監督が率いる日本代表は、2−1で辛勝したこのシンガポール戦が「底」だった。中田が参加しながら足の痛みで途中離脱した4月の東欧遠征からチームがまとまりはじめ、8月には主力の半数を欠いて苦戦続きだったもののアジアカップで優勝、先月はアウェーでオマーンを退けてワールドカップのアジア第1次予選勝ち抜きを決めた。
しかし強豪と対戦する最終予選(来年2月〜8月)では、中田の力が不可欠だ。インテル戦で見せたプレッシャー下での抜群のキープ力は、2006年ワールドカップ・ドイツ大会を目指す戦いのなかで無限の価値をもつはずだ。
98年にベルマーレ平塚(現在の湘南)からセリエAのペルージャに移籍した中田。2000年にはビッグクラブのローマに移籍し、翌年にはセリエA優勝も味わった。しかし2001年夏から所属した3つ目のクラブ、パルマでは、なかなかうまくプレーが運ばなかった。
右サイドのMFとして、ときにはサイドバックのようなポジションまで下がって、与えられた仕事を懸命にこなした。しかしその役割は、中田の創造的な能力を生かせるものではなく、毎週テレビで見ながら、私は痛々しさを感じずにはいられなかった。
中田は、監督に何を求められてもそれをやり抜いた。驚異的なスタミナとケガを知らない超人ぶりは、厳しいセリエAで6シーズンも生き抜いてきた重要な要素だった。今回の故障は、その中田が、プロになって初めて直面した種類の困難だったに違いない。
コンディションが戻らないまま今夏フィオレンティナに移籍。しかし開幕からそのプレーは失望続きだった。ファンから厳しいブーイングを浴びせられることもあった。しかし2アシストを記録して4−0の勝利のヒーローとなったレッチェ戦、中田の表情に明るい笑顔が広がった。
1点目のアシスト直後には、いつものようにクールだった彼が、自分で独走しながらチームメートのオボド(ナイジェリア)にパスを回してアシストした3点目のときには、そのオボドに抱き上げられながら歓喜の表情を見せた。
中田英寿は、サッカーで生きている。
サッカーで収入を得ているという意味ではない。自己の創作的な欲求をサッカーによって満足させ、表現することが、彼の生きる証しなのだ。画家が絵筆をもつように、作曲家が楽譜に向かうように、中田はサッカーをプレーする。7カ月間、あるいはそれ以上の年月にわたる苦闘の末、中田はその喜びを取り戻した。それは、セリエA優勝にも匹敵する大きな「勝利」だ。
この勝利は中田に何をもたらしただろうか。これからの中田が楽しみになった。
(2004年11月10日)
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