サッカーの話をしよう
No.533 レッズのある街
Jリーグでステージ初優勝を成し遂げた翌11月21日日曜日の朝、浦和は明るい日差しと小春日和の暖かさに包まれていた。
一夜明けた駒場スタジアム内には、前日、ファンが降らせた記録的な量の紙ふぶきを集めたゴミ袋を積み上げた山がいくつもつくられていた。スタンドにはすでに23日の勤労感謝の日に行われる市民マラソンののぼりが立ち、公園内もその準備の人びとが動き回っていた。
この朝、スタジアムに隣接する人工芝の補助グラウンドでは、「浦和レッズ」が試合を始めようとしていた。と言ってもエメルソンや田中達也はいない。純粋なアマチュアの「レッズ・アマ」が、さいたまの市民大会に出場していたのだ。レッズのユース出身者が中心の若いチーム。そのなかに畑中隆一さん(43)の姿があった。
レッズの「運営グループ」でマネジャーを務める畑中さん。「アマ」の一員ながら、その試合のある日曜日には、トップやサテライトの試合の運営にたずさわらなければならず、なかなか参加することができない。しかしこの日はたまたま何もなく、前夜3時まで仕事をしていて睡眠不足だったものの、浮き立つ心が彼をグラウンドに引っぱった。
テクニックに優れた若手のなかにはいっても、畑中さんの幅広い動きは目についた。そして右から左足でライナーのクロスを入れ、見事なアシストも記録した。
同じ朝、レッズの練習場に隣接するさいたま市浦和区の障害者交流センターには、「普及グループ」チーフマネジャーの落合弘さん(58)、丸山大輔さん(34、広報グループ)、土橋正樹さん(32、普及グループコーチ)の姿があった。定期的に開催しているサッカー交流。この日は、知的障害をもった子供60人とボールをける会だった。明るい日差しのなか、交流センターの中庭にあるきれいな芝生の上で、父兄も交じってみんなで伸び伸びと遊んだ。
60年代から19シーズンにわたってレッズの前身である「三菱サッカー部」で活躍し、日本代表の中心選手でもあった落合さんは、昨年から「浦和レッズハートフルクラブ」の「キャプテン」に就任し、ホームタウン全域にサッカーの楽しさ、面白さ、そして喜びを知ってもらおうという活動をしている。
子供たちの父兄から口々に「おめでとう」の言葉をかけられた落合さんは、最初にこんな話をした。
「いま、みなさんからおめでとうと言ってもらいました。でもこれは、レッズだけでなく、レッズを支えてくれたみなさんの優勝でもあります。だから、クラブからも、みなさんにおめでとうと言いたいと思います」
さいたま市の東にある春日部市の特別養護老人ホーム「彩光苑」には、広報グループチーフマネジャーの佐藤仁司さん(47)が、若手の新井翔太選手(19)とユース所属の選手2人を伴って訪問していた。「さわやか福祉財団」の事業に、地元の小渕サッカー少年団とともに参加していたのだ。これも、例年行っている活動のひとつだった。ホーム内のサロンで選手と子供たちがボールを使って「ピン当てゲーム」などを行い、最後には車椅子姿のおじいちゃんやおばあちゃんも加わって爆笑が広がった。
ブッフバルト監督の下、Jリーグで戦うチームだけが「浦和レッズ」ではないことが、この1日を見るだけでよくわかる。毎日の「ホームタウン生活」のなかにサッカーがあり、地域の一員として、浦和レッズもごく自然にそこに参加している。
夢にまで見た優勝の翌日、浦和レッズのホームタウンには、いつもどおりの「サッカーライフ」があった。
(2004年11月24日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。