サッカーの話をしよう
No.538 ポジティブ・サッカー
「浦和が『攻撃的』だなんて、誰が言ったの?」
そう問われて、返事に窮した。昨年秋、浦和レッズがJリーグで快進撃していたころの話だ。「浦和の攻撃をどう止めるか」という私の質問に、あるクラブの関係者がこう聞き返してきたのだ。
「浦和はね、3人で攻めているだけなんだ。残りの7人は守っている。そのサッカーのどこが攻撃的なのか」
チーム全体で果敢に押し上げて分厚く変化に富んだ攻撃をする自分のチームのほうが浦和よりはるかに攻撃的だと、その人は主張した。
その論理によれば、1試合平均2・7得点を記録している浦和より、その半分程度の得点しか挙げられないチームのほうが「攻撃的」であり、ファンを喜ばせているということになるのだろうか。なんだか議論をする気になれず、私はその場を辞した。
ジーコ監督率いる日本代表は昨年のアジアカップで優勝を飾った。だが地元中国を3−1で下した決勝戦以外は、相手にボールを支配され、苦しい試合ばかりだった。パスはつながらず、キープできず、必死に守ってFKやCKを生かしてなんとか勝ちんだ。
ボールを支配しイニシアチブを取ってプレーを進める、練習してきたチームプレーを発揮する...。そうした試合を、私は「いいサッカー」と評価してきた。そしてそれが勝利やタイトルに不可欠な要素と考えてきた。しかしジーコには違った基準があるのではないかと、私はこのころから考え始めるようになった。
もちろん「いいサッカー」ができれば勝利の可能性は大きくなる。しかしそれができないからといって勝てないわけではない。
自分たちのゴールを守り、相手のゴールにシュートを決めることさえできれば、勝利はおのずと自分たちのものとなる。そのためには、どんな相手も恐れず、みくびらず、試合が始まったらあわてず、集中を切らさず、終了の笛が吹かれるまで全力でプレーする----。アジアカップで、日本代表チームはこうした「ジーコイズム」というべき姿勢を十二分に発揮した。ジーコはそうした選手たちに最大の賛辞を送った。
「攻撃的サッカー」や「いいサッカー」は、私たちにとって一種の強迫観念だったのではないか。それにとりつかれ、肝心なものを見失っていたのではないか。そんなことを考えながら年を越した。そして元日の天皇杯決勝で、私は東京ヴェルディのプレーに目を見張らされる思いがした。
タイトルから久しく遠ざかり、低迷が続いた東京V。しかしこの天皇杯で見せたプレーは、過去、どんなタイトルを取ったときにも増して魅力的だった。ピッチ上の選手たちが、例外なく生き生きと前向きにサッカーに取り組んでいたのだ。「ポジティブ・サッカー」。試合を見ながら、そんな言葉が思い浮かんだ。
1年ほど前までの東京Vは動きが少なく、躍動感の少ないサッカーをしていた。
「年寄りのサッカー」と、アルディレス監督は表現した。だがこの1年で根本的に変わった。一人ひとりの選手が自分の能力を信じ、仲間を信じて、それを試合で示そうという意欲に燃えていた。東京Vのサッカーは、見ていて心躍るものへと変身を遂げた。
「ネガティブな話は一切しなかった。ポジティブな姿勢を選手たちに植えつけるのは監督としていちばん大事な仕事だ」と、アルディレス監督はその道のりを語った。
「攻撃的」であるかないか、「いいサッカー」であるかないかなど、第二次的なテーマであるのに違いない。選手たちが自己を前向きに表現する勇気をもたせることさえできれば、サッカーは十分に美しく、そしてまた生命力にあふれたものになるからだ。
(2005年1月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。