サッカーの話をしよう
No.548 浦上選手の引退あいさつ
大げさなセレモニーではなかった。報道もされなかった。しかし春とは思えないような寒さのなか、なぜかほっとさせられる出来事だった。
先週土曜日のJリーグ第2節、川崎フロンターレ対浦和レッズは、川崎にとって待ちに待ったホーム開幕戦だった。実に5シーズンぶりのJ1。等々力競技場には2万4332人のファンが詰め掛けた。川崎は昨年の第2ステージ王者浦和を相手に一時3−1とリードする健闘を見せ、最終的には3−3で引き分けたものの、「J1でも十分戦えるぞ」と、ファンを満足させた。
この試合のハーフタイムに小さなセレモニーが行われた。昨年まで川崎のゴールキーパーとして活躍した浦上壮史(うらかみ・たけし)さん(36)の引退あいさつだった。
闘志あふれる守備とともに気さくな人柄からファンからも慕われていた浦上さんだが、昨シーズン終了時にクラブから引退が発表されていた。東京の国学院久我山高から日産ファームを経て92年から横浜マリノスで3季プレー、95年から清水エスパルスに2季在籍した後、97年に川崎に加入、守護神として活躍してきた。川崎での出場試合数は182にものぼった。
簡素なセレモニーだった。メインスタンド前に置かれた小さな台にスタンドマイクが置かれ、そこにスーツ姿の浦上さんが出てきてあいさつするというだけのものだった。メインスタンドに向かって話さなければならないところを、緊張した浦上さんはバックスタンドに向かって話し始めてしまい、クラブの広報担当があわてて注意すると、スタンドがどっと沸いた。
「みなさんこんにちは」と話し始めた浦上さんの口から次に出たのは、私にとってとても意外な言葉だった。彼はまず、ビジターの浦和のサポーターに向かうと、こう話しかけたのだ。
「レッズ・サポーターのみなさん、私ごとですが、しばらくご容赦ください」
浦和のサポーターは、アウェーでもホームチームを圧倒する迫力をもっているので有名だ。この日も試合前の選手紹介のときから、川崎の選手の名がアナウンスされると大きなブーイングを投げつけていた。しかしこのときには、毒気を抜かれたようだった。そしてブーイングどころか、大きな拍手が起こった。
川崎のサポーターに向き直った浦上さんは「いつかここに戻ってきて、クラブのために働きたい」と、短く語ると、スタンドに向かって手を振りながら台を降りた。大きなコールが巻き起こったのはもちろんだった。しかし浦和のサポーターたちからも、再び盛大な拍手が送られた。
サポーター同士がいがみ合い、相手チームに見境なくブーイングするのは、Jリーグでは日常的なことだ。この日も、浦和のサポーターは、浦上さんのあいさつに対してブーイングはしないまでも、無視しても不思議はなかった。浦和を応援するためだけにここにきているからだ。
しかしそんな空気が一瞬で変わった。浦上さんのほんの一言、それもおざなりではなく、大人として、礼儀正しく浦和のサポーターに向かっての、「おことわり」の言葉が起こした「奇跡」だった。
一般に、試合の運営面ではどうだろうか。場内アナウンスなどで、こうした意識が払われているだろうか。逆に、無闇に対立をあおるものになっていないだろうか。スタジアムには闘志が充満していなければならない。しかしそれは憎悪のぶつけ合いという意味ではない。浦上さんが起こした小さな奇跡に感心しながら、そんなことを思った。
浦上さんは、清水時代のチームメートでもある大榎克己さんが監督を務める早稲田大のGKコーチとして指導者の道をスタートするという。
(2005年3月16日)
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