サッカーの話をしよう

No.556 無観客試合

 6月8日のワールドカップ・アジア最終予選B組、北朝鮮対日本は、中立地バンコク(タイ)での「無観客試合」となった。3月の2試合での連続した観客トラブルに対する、国際サッカー連盟(FIFA)の処罰である。
 ワールドカップ予選では、最近、中米のコスタリカと東欧のアルバニアが無観客試合のペナルティーを受けた。メキシコ戦で観客が審判やメキシコ選手にコインや、ビン、乾電池などを投げたコスタリカは、すでに3月26日のパナマ戦を無観客で戦った。
 一方のアルバニアは、ウクライナ戦で観客がピッチに物を投げ込み、スタンドで発炎筒をたき、最後にはピッチになだれ込んでしまった結果、2試合(6月4日のグルジア戦と9月3日のカザフスタン戦)を無観客で開催しなければならなくなった。

 無観客試合はサッカーで最も重い懲罰のひとつだ。ホームチームにとって重要な収入源であるチケット販売の権利を剥奪し、ファンをも犠牲にするのだから、数百万円程度の罰金とは比較にならない打撃がある。選手、審判や観客を守り、試合を安全に運営することは、試合の勝敗や、ワールドカップ出場権でさえ問題にならない重大事である。それを徹底するためのペナルティーだと、私は理解している。北朝鮮の場合も、無観客は当然のように感じた。
 ただ、「中立地開催」は、他の例と比較して厳しすぎる印象を受けた。おそらく、「観客が騒いだのは主審の責任」と主張し続けた北朝鮮サッカー協会の姿勢が問題視されたのだろう。

 20年ほど前、実際に無観客試合を見た経験がある。85年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ1回戦、ユベントス(イタリア)対ジュネーゼ(ルクセンブルク)だった。
 前シーズン、ベルギーのブリュッセルで行われた決勝戦前に、リバプール(イングランド)のサポーターが観客席でユベントスのファンに襲いかかり、39人もの圧死者が出る惨事が起こった。この事件で、イングランドのクラブにはヨーロッパの大会から5年間締め出しという厳罰が下されたたが、ユベントスにも「1試合の無観客試合」が宣告された。その試合だった。
 5万人を収容するトリノのコムナーレ・スタジアム。しかしこの日は、試合前に出場選手のアナウンスがあっても、拍手したのは十数人のボールボーイだけだった。
 まるで練習のような雰囲気のなか、ユベントスは攻撃のリズムをつかめず、中心選手のプラティニがいらつく場面もあった。ユベントスは4−1で勝ったが、最後に集中を欠いた守備から1点を失い、選手たちは憮然とした表情で引きあげていった。

 この日、公式に発表された数字は、「記者72人、カメラマン32人」という報道陣の数だけだった。
 正直なところ、無観客試合はまったく楽しくなかった。ジュネーゼがセミプロで、ユベントスにとって歯ごたえの少ないチームだったせいではない。ホームであろうとアウェーであろうと、サッカーとは、観客の声援と反応があってはじめてスペクタクルなショーになる。選手たちもそれを感じていたに違いない。
 その夜、ホテルに戻ってテレビでUEFAカップのACミラン(イタリア)対オーゼール(フランス)を見た。ミランのプレーの洗練度はユベントスに比べるとはるかに劣ったが、観客の反応が鋭く、目を離せない試合だった。
 ワールドカップ出場権をかけて、バンコクの酷暑のなか、日本は無人のスタンドの前で懸命に戦う。彼らにかろうじて集中を保たせるのは、もしかしたら、数千キロかなたのテレビの前で懸命に声援を送るファンの、強力な思念だけかもしれない。
 
(2005年5月18日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

アーカイブ

1993年の記事

→4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1994年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1995年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1996年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1997年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1998年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1999年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2000年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2001年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2002年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2003年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2004年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →9月 →10月 →11月 →12月

2005年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2006年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2007年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2008年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2009年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2010年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2011年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2012年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2013年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2014年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2015年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2016年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2017年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2018年の記事

→1月 →2月 →3月