サッカーの話をしよう
No.583 追悼ジョージベスト
私もジョージ・ベストを書きたい。昨日の藤島大氏と違い、彼と直接会うことはできなかったが、ベストは私の世代のマラドーナであり、ロナウジーニョだった。
マンチェスター・ユナイテッドが北アイルランドのベルファストに置いたスカウトの最初の仕事が、ジョージ・ベストの「発見」だった。1961年夏のことである。
ユナイテッドは3年前の飛行機事故でチームの大半を失い、再建のまっただなかにあった。その事故から奇跡的に生き残った伝説の監督、マット・バスビーは、マンチェスターに送られてきた少年にボールをけらせると、ひと目でその才能を見抜いた。
しかし彼はホームシックに耐え切れず、わずか1日で家に帰ってしまう。バスビーは少年の父親を説得し、少年はマンチェスターへ戻った。先週金曜日、59歳の若さで亡くなったジョージ・ベストのサッカー選手としてのスタートだった。
17歳でプロデビュー。ベストはたちまちのうちにファンの心をとらえた。小さくて、信じられないくらい細かったが、いったんボールをもつと、そのドリブルは誰にも止められなかった。そして左右両足から繰り出されるカミソリのように鋭いシュートがファンを熱狂させた。
66年3月、20歳の誕生日を迎える前に「伝説」が生まれる。ヨーロッパ・チャンピオンズカップのベンフィカ(ポルトガル)とのアウェー戦で、ベストは2ゴールを記録、ユナイテッドを5−1の勝利に導いたのだ。その2点目は中盤でボールを受けるとあっという間に2人を抜いて決めたもの。翌朝のリスボンの新聞には、「エル・ビートル」の文字が躍った。耳が隠れるほどの「長髪」が、当時人気絶頂だったビートルズと重ねられたのだ。
そして68年、チャンピオンズカップの決勝で決勝ゴールを決め、ユナイテッドに初のヨーロッパ王者の座をもたらしたベストは、「ヨーロッパ年間最優秀選手」に選出される。ベルファストから出てきてわずか7年後の「シンデレラ・ストーリー」だった。
日本のファンがベストのプレーを見ることができるようになったのもちょうどこのころだ。68年4月にスタート、以後20年間にわたって日本のファンに世界のサッカーを紹介し続けてきた「三菱ダイヤモンド・サッカー」の第1回放送が、トットナム対マンチェスター・ユナイテッドだったのだ。この試合で、ベストはオーバーヘッドキックで先制点のアシストをするという派手なプレーを見せた。数年後には日本にもベストの公式ファンクラブが誕生する。
しかしベストの「最良」の時期は長くなかった。父親のように慕ったバスビー監督の引退で支えを失い、たびたび問題を起こすようになる。
10代のころからの飲酒が、次第に彼のプレーから鋭さを奪った。そして74年にはユナイテッドから去る。以後、アメリカやイングランドでいくつかのクラブを渡り歩いたものの、20代はじめのころの輝きを取り戻すことはできなかった。
世界のサッカーファンにとっての不幸は、彼をワールドカップで見ることができなかったことだろう。1977年秋、ベストは北アイルランド代表の緑のユニホームを着てワールドカップ予選の舞台に立った。背番号は10。31歳を迎えたベストは円熟したパスワークで攻撃をリードした。しかし最後の望みを託したホームのオランダ戦を0−1で失い、ベストの夢は消えた。
長年の飲酒により彼の肉体はむしばまれ、数年前から入退院を繰り返していた。そして11月25日、複合的な臓器機能停止で帰らぬ人となった。翌日、イングランドの全スタジアムが、かつてはベストに何度も苦汁を飲まされたリバプールのファンまでが、彼の魂に黙とうし、追悼の拍手を送った。
(2005年11月30日)
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