サッカーの話をしよう

No.595 靴を磨こう

 先週、みぞれのドルトムントでボスニア・ヘルツェゴビナ戦を終えた日本代表選手たちは、試合の数十分後にはスタジアムを後にし、あわただしく帰国の途についた。
 私はつまらないことが気になる。この日使った練習着やユニホーム類は、汗と雨で濡れたまま防水袋に詰め込まれ、20時間も放置されて、どんな惨状になるのだろう。
 ウエアよりも気がかりなのはシューズだ。まさか代表選手だからといって、シューズを試合ごとに「はき捨て」にするわけではないだろう。
 今日、日本代表選手はもちろん、Jリーグの大半の選手もサッカーシューズの手入れなどしない。協会やクラブが専門のスタッフを雇っているからだ。練習や試合が終わったら、所定のところに置いておけば、次の練習や試合の前には完璧に手入れされた状態で選手を待っている。

 イングランドでは、長い間、シューズの手入れはプロ契約前のユース選手の役割だった。スペインのレアル・マドリードでも活躍したイングランド代表のスティーブ・マクマナマンが、ユース選手として所属していたリバプールでイングランド代表FWジョン・バーンズの「シューズ磨き係」だったことは有名な話だ。
 しかし最近では、アマチュア選手でもあまりシューズの手入れをしないらしい。本人たちの名誉のためにチーム名は伏せるが、私がよく知るチームでは、試合のときに磨いたシューズをはいている選手は非常に少ない。ひどい例になると、前週の試合が雨だったのにそのままシューズバッグのなかに放置し、試合会場で取り出したらカビが生えていたという選手もいた。
 「アッパー」部分が、天然皮革ではなく人工皮革のシューズが多くなったことも、手入れをしない選手が増えた原因かもしれない。人工皮革は汚れがつきにくく、試合後そのままバッグに入れるという習慣になりがちだ。

 シューズの正しい手入れには、時間と手間がかかる。
 まずトントンと叩いて土を落とし、ぼろきれでおおまかに汚れをぬぐい落とす。泥んこのグラウンドだったら、丸洗いが必要かもしれない。そして風通しのよい日陰に置いて乾かす。雨の試合後だったら、新聞紙を丸めて中に入れる。水分を吸わせるとともに、形を保つためだ。
 雨で濡れていなくても、シューズは汗を大量に吸い込んでいるはず。「陰干し」作業は不可欠だ。ただし絶対に乾燥機を使ったり火の側に置いたりしてはならない。そんなことをしたら皮革が劣化し、はき心地が悪くなってしまう。
 十分乾いたらていねいにブラッシングする。靴クリームなどを使うとさらによい。
 磨いていると、シューズに対する愛情や感謝の念が湧いてくるのを感じる。そして自然に、次の試合はああしよう、こうしようと考えてしまう。それは、ピッチの中だけでなく、こんなときにもサッカーの喜びがあることを思い起こさせる、幸福な時間だ。

 私が取材を始めたころは、試合後の記者会見もミックスゾーンもなく、記者たちは試合直後の更衣室にはいっていって話を聞くのが常だった。
 釜本邦茂さんは、シャワーを浴びる前に、更衣室中央のベンチに座ったままで記者たちに囲まれていた。まず足首のテーピングをはがし、ベンジンで粘着剤を取り去る。そして使い古しのタオルを取り出すと、その日使ったシューズをぬぐい、スタッドを一本一本ていねいに磨いてから、大事そうにバッグに収めた。あのぎょろっとした目を上げて記者の質問に答えるときと、シューズに目を落としたときのまなざしが、ずいぶん違うように思えた。
 そのとき釜本さんが何を話したかは忘れてしまった。しかし彼が愛情を込めてシューズを扱っていた姿は、いまもまぶたに焼き付いている。
 
(2006年3月8日)
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サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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