サッカーの話をしよう

No.597 イタリアサッカーのミスター

 1985年にトリノでユベントスを取材したとき、監督のジョバンニ・トラッパットーニが「ミスター」と呼ばれているのを聞いて興味をもった。練習で選手に何か注意すると、選手はきちんと立ち止まり、「はい、ミスター」と答える。その様子は、まるで先生と生徒だった。
 たまたま単独でインタビューする機会があったため、思い切って聞いてみた。しかし「なぜミスターと呼ばれているのか」という質問は、私の無知さをさらけ出すのと同じだった。イタリアではサッカーの監督を「ミスター」と呼ぶ習慣があることを、私はまったく知らなかったのだ。
 話は1912年、第一次世界大戦前にさかのぼる。イタリアのサッカーがまだ揺籃期と言ってよいころのことだ。

 北イタリアの港湾都市ジェノバにイギリス人の手で1896年に創立された「ジェノア・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」は、2年後の第1回のイタリア選手権で優勝、1904年までに通算6回もの優勝を飾ったが、その後はタイトルから遠ざかっていた。ジェノアが本当の黄金時代を迎えるのは、1912年、ウィリー・ガーバットというイギリス人を、この国で初めてのプロ監督として雇用した後だった。
 イングランド中部、マンチェスターに近いストックポートで、1883年に大工の息子として生まれたガーバットは、レディング、アーセナル、ブラックバーンでプレーし、イングランドの1部リーグ出場が130を超すプロ選手だった。しかし1911年から翌年にかけてのシーズンでは1試合しか出場できず、現役生活を終えようと決心していた。ジェノアから監督としてきてくれとの誘いを受けたのは、そんなときだった。

 まだアマチュア時代で、選手たちが気ままにプレーしていたイタリア。ガーバットがもちこんだのは、厳しい体力トレーニングと規律だった。29歳のガーバットは選手と同じように短パンとスパイク姿で練習グラウンドに立ち、チームを鍛え上げた。
 厳しかっただけではなかった。彼は、選手たちを弟のように愛し、情熱を傾けて指導した。チームを強くするための環境づくりにも奔走し、チームの更衣室にイタリアでは初めての温水シャワーを設置させた。
 チームを強化するために対価を払って他クラブから選手を獲得するという、今日では当たり前のことも、イタリアで初めて断行したのはガーバットだった。同じ町のアンドレア・ドリアというクラブから2人、そしてすでに強豪の地位を獲得していたACミランからはイタリア代表選手の獲得に成功した。

 そしてついに1915年、実に11年ぶりにイタリア・チャンピオンの座に返り咲く。さらに第一次世界大戦後の1923年、24年には連続優勝を果たす。最初の優勝のころには、選手たちは敬意を込めて彼を「ミスター」と呼ぶようになっていたという。
 イタリアと祖国イギリスが敵同士となった第二次世界大戦の最中にも彼はイタリアにとどまり、サッカーの指導を続けた。1927年から10年間ほど他のクラブの指揮をとった時期を除き、彼は都合26年間をジェノアの監督として過ごし、ようやく1948年にイングランドに戻った。
 彼の指導は、イタリア・サッカーの発展期に大きな影響を与えた。1934年、38年とイタリア代表をワールドカップ連続優勝に導いたビットリオ・ポッツォ監督も、彼に心酔していたという。
 祖国イングランドではその功績どころか名前さえ知る人の少ないガーバット。しかしイタリアでは、監督たちに対する「ミスター」の尊称とともに、その功績が長く語り伝えられている。
 
(2006年3月22日)
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