サッカーの話をしよう
No.601 イタリア人サポーターの真っ只中で
チケットの番号を頼りにたどり着いた席は、ゴール裏、イタリア人サポーターの真っただ中だった。
1974年ワールドカップ・ドイツ大会の1次リーグ第3戦、イタリア対ポーランド。私にとって生まれて初めてのワールドカップの最終日だった。2年前のオリンピックで優勝し、この大会でもアルゼンチンとハイチに連勝して高い評価を受けていたポーランド。予定にははいっていなかったが、ひと目でも見ておきたいと、苦労してチケットを入手し、シュツットガルトにやってきたのだ。
しかし陸上競技場のゴール裏スタンド、しかも前から10列目の席は、ほとんどピッチの高さで、サッカーを見るどころではなかった。チャンスになると、周囲のイタリア人はすぐに立ち上がってしまうからだ。私もいっしょに立つのだが、前に大男がいたため、あっと思った瞬間には視野からピッチが消えた。
イタリア人たちは陽気にサッカーを楽しんでいた。シュツットガルトはドイツ南部の町。まっすぐ南下し、スイスを縦断してアルプスを越えれば、そこはイタリアのロンバルジア平原だ。日曜日のこの日、バスや列車、あるいは自家用車でやってきたイタリア人で、7万人収容のスタジアムはぎっしりと埋まっていた。スタンドでは赤・白・緑のイタリア国旗が無数にはためき、1プレー1プレーに反応して大歓声が上がった。
試合は思うようには見ることはできなかったが、その雰囲気はワールドカップならではのものだった。サイドからサイドへ大きく振られるポーランドのパスに目を見張りながら、私はその雰囲気を心から楽しんだ。
前半、ポーランドの速攻に2点を許したイタリアは、温存していたエースのボニンセーニャを後半から投入した。イタリア語の場内アナウンスで彼の名が告げられる。すると、私のすぐ背後から、低くうめくような女性の声で「ボーニン、セーニャ...」というつぶやきがもれた。
サッカー場であれば、大声で歓声が飛ぶ場面のはずだった。実際、周囲からは盛大な拍手が起こっていた。しかし私の耳にはいってきたのは、不思議な響きの声だった。思わず振り返ると、深刻な表情の老婦人と目が合った。
そのつぶやきは、「祈り」といった浄化されたものではなかった。どこか土俗信仰のような、呪術的な響きがあった。
だがその思いは届かなかった。後半の追撃空しく、イタリアは1−2で敗れた。
ところが試合が終わっても誰も席を立とうとはしない。ブーイングもない。不気味な静けさのなかで、人びとはある知らせを待っていた。ミュンヘンで行われていたアルゼンチン対ハイチの試合結果だった。前の試合で、イタリアはアルゼンチンと引き分けていた。アルゼンチンがハイチに勝てば、イタリアと勝ち点3で並ぶ。問題は得失点差だった。ハイチには3−1の勝利だったイタリア。アルゼンチンは?
永遠のように思われた5分間が過ぎ、電光掲示板に数字が現れた。「アルゼンチン−ハイチ 4−1」。イタリアの「ワールドカップ74」が終わった。
暴動でも起こるのではと、私は心配になった。少なくとも、いろいろなものが飛んでくるのではないか...。
しかし何も起こらなかった。イタリア人たちはみんなうつむいていた。そして無言のまま、ぞろぞろとスタジアムを去っていった。彼らが本当にこの敗退を悲しんでいることが理解できた。
私にとって最初のワールドカップ。クライフ(オランダ)を中心に、すばらしいプレーも見た。しかし最も心に残ったのは、この日のイタリア人たちの陽気な観戦ぶりと、あの老婦人のつぶやき、そして敗退が決まった後、無言でスタジアムを後にする人びとの列だった。それは、サッカーというスポーツがいかに世界の人びとの生活に浸透しているか、強く感じさせられた体験だった。
(2006年4月19日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。