サッカーの話をしよう
No.604 お祭りと日常と
5月15日、ワールドカップ・ドイツ大会代表の23人が、ようやく発表された。
この日に開幕14年目の記念日を迎えたJリーグは、5月7日で全日程の3分の1強の12節を終了し、2カ月間あまりの中断にはいっている。
大型補強をした浦和が快走し、昨年優勝のG大阪が追い、その間隙をつくように川崎が首位に立った。千葉、清水、甲府など緻密なチームプレーで活躍するチームがある一方で、下位に低迷する2クラブでは早くも監督交代が断行された。今季のJリーグは、これまでになく充実しているように感じる。
ところが、この1カ月間のJリーグは、ワールドカップ代表入りが期待される選手たちの「国内予選」のように扱われてきた。ジーコがそうしたわけではない。メディアがそのように扱ったのだ。私自身も、F東京と名古屋の試合で、両チームのGK(土肥と川口)にスポットを当てた記事を書いた。
行きすぎだったと思う。各クラブはもちろん、選手たちも、日本代表入りのアピールだけを考えてJリーグを戦っていたわけではない。ひとつでも上の順位を目指し、少しでも地元サポーターに喜んでもらえる試合をし、結果を残そうとしてきただけなのだ。そうした戦いに目を向けず、「23人にはいるかどうか」の興味だけでJリーグを伝える姿勢はおかしかった。
ワールドカップは、サッカーを志した者なら誰もがあこがれる夢の舞台だ。サッカーを愛する人びとにとって、4年にいちどの「お祭り」だと言ってよい。
しかしサッカーはワールドカップや日本代表だけではない。選手たちは、何にも先立ってそれぞれの所属クラブと契約するプロであり、その生活はクラブでのプレーによって成り立っている。そして、それを支えているのが地元のサポーターたちだ。ワールドカップがあろうとなかろうと、また、その候補にはいっていようといまいと、選手たちはクラブの勝利のため、サポーターのために全力を尽くす。
幸いなことに、「日常」としてのJリーグは、金銭的にも企業や放送などから大きな支援を受けている。
ことし2月にトリノで行われた冬季オリンピックを見ながら、「この選手たちは4年にいちどのオリンピックがすべてのようで気の毒だ」と感想をもらしたサッカー選手がいた。裏を返せば、サッカー選手たちは日常的な活動だけで十分報われる幸せな存在であり、それゆえに日常に対する責任も重い。Jリーグの試合は、そうした責任の上にプレーされているものだ。
今季12節までのJリーグ報道は、その事実に対する配慮や尊重に欠けていたのではないか。それによって、こうした「日常」の重要性や価値が見逃され、どんなに意味のある勝利でもワールドカップに無関係なら無視されて、ファンを失望させることが多かったのではないか。
誰もが夢に見、4年にいちどしか行われないワールドカップ。しかしそれがサッカーのすべてではない。それどころか、ワールドカップという「お祭り」がなくても、Jリーグという「日常」だけで十分サッカーは成り立ち、続いていく。その関係を、私たちは見失ってはならない。
23人の選手が発表された日、テレビ各局は、選ばれた選手たちの生の表情を見せ、言葉を聞かせてくれた。過去2回の大会に比べると、どの選手も非常に落ち着いているように見えた。それは、それぞれのクラブでの日常の活動が地に足がついたものになってきた証拠だろう。
「お祭り」のメンバーに選ばれた選手たちは、そこで全身全霊を傾けたプレーを見せてくれるはずだ。と同時に、「日常」の大切さを見失うことも、けっしてないだろう。
(2006年5月17日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。