サッカーの話をしよう
No.616 顔を上げろ
アウェーのカシマスタジアムで見事なプレーを展開しながら、ひとつのオウンゴールが重くのしかかり、0−1の敗戦。3連敗、しかも3試合連続無得点。京都パープルサンガの選手たちは、汗にぬれた白いユニホームの重さに打ちひしがれるように、がっくりと肩を落としてゴール裏のスタンドに陣取ったサポーターのところに向かった。
テレビの画面にひとりの選手がアップで映し出される。オウンゴールを献上してしまったDFの児島新だ。そこに長身のブラジル人選手が寄ってきた。負傷から回復し、3週間ぶりに出場したFWのアンドレだった。児玉の肩に左手をかけると、右手を自分自身のあごにもってきて、つんつんと2回、突き上げた。
ポルトガルのナシオナルというクラブから移籍してきて3カ月、まだ細かな日本語などできない。しかし彼が言いたいことはしっかりと児玉に伝わった。
「顔を上げろ」
決定的なピンチを必死に守ろうとした結果が、不運なオウンゴールになっただけだ。お前の責任で負けたわけではない。顔を上げろ、胸を張れ。戦いはまだ続くぞ----。
以前から非常に気になっていた。日本のサッカー選手は、顔を下げすぎる。
絶好のチャンスにシュートを大きく外してしまう。相手チームにゴールを許す。試合に敗れる...。選手たちは、そのたびに頭(こうべ)を垂れ、「うつむき」のポーズを取る。
このポーズは、してしまったことを悔やむだけでなく、自分が悔やんでいることを周囲に伝える役割を果たす。「反省しています」というわけだ。これを見たら、周囲の人びとはそれ以上の非難はしないというのが、日本社会の共通理解である。
しかし実際には、ミスの原因を真剣に考えたり、「次こそは」と決意を固めているわけではない。ただ自分の殻に閉じこもり、それ以上の打撃から自分自身を守ろうとしているにすぎない。すなわち、うつむくことで、安全な場所に逃げ込んでいるのだ。
こうした心理的なプロセスをすべて否定するわけではない。人間には、多かれ少なかれこの種の能力が備わっていて、無意識のうちにそれを発動させることによって精神の平衡を保っているからだ。
私が気になっていた理由は、それがまったく「サッカー的」でないと感じるからだ。
キックオフされたら、45分間休みなくプレーが続くのがサッカーという競技だ。その最中に下を向いても、何も得るものはない。
サッカーで見るべきものは、自分の下にはない。それは周囲にある。ボールはどこにあって、どんな状態なのか。どちらのチームが保持し、どう攻撃を進めようとしているのか。味方選手はどこにいて、何をしようとしているのか。そして相手選手は...。
シュートを外してプレーが一時止まっているときにも、試合の状況は刻々と変化している。相手はどう動き、ゴールキックからどのように攻撃しようとしているのか。それに対し、味方はどんな守備組織を準備しているのか。そのなかで自分の役割は...。
リーグ戦という長期間の戦いでは、1試合が終わってもすべてが終わるわけではない。試合終了のホイッスルは次の試合への準備のスタートの合図にすぎない。負けたとしても、落胆したり、失望しているひまなどない。すなわち、極端に言えば、サッカー選手というのは、下を向いている時間などない生き物なのだ。
「休息から学ぶものなどない。引退すれば、いくらでも休むことができる」
日本代表のオシム監督が、3年半前、ジェフ千葉(当時は市原)の監督として来日したころの言葉だ。
それとまったく同じだ。どんなことがあっても、引退するまで下を向くな。きみは、サッカー選手なのだ。
(2006年9月13日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。