サッカーの話をしよう
No.621 インドで考えたこと
前半39分過ぎ、突然ピッチ内の雰囲気ががらりと変わった。よく見ると、4本あるはずの選手たちの「影」が3本しかない。4基ある照明塔のうちの1基の照明が消えてしまったのだ。
10月11日、インドのバンガロール。アジアカップ予選のインド×日本。しかし驚く人はあまりいなかった。日本選手たちも構わずプレーを続けようとした。いちばん驚いたのは、香港からきた主審だった。彼は笛を吹いて試合を一時中断した。
日本代表にとって、「インドでの停電」は驚きではない。一昨年の9月にコルカタ(カルカッタ)で行われたワールドカップ予選のときには、ハーフタイム中にスタジアムの全照明が消え、後半の開始が35分間も遅れた。今回は4基のうちの1基だけだったので、主審は数分で試合続行を決定した。
私にとって2回目のインド。デカン高原南部のバンガロールは、2年前に行ったガンジス川河口のコルカタとはずいぶん雰囲気の違う町だった。蒸し暑かったコルカタに比べると、標高900メートルのバンガロールは気候も穏やかで、町には緑が多かった。インド経済躍進の牽引車であるIT産業の中心地。アメリカやヨーロッパの企業が数多く進出し、新しいビルもどんどん建設されていた。
しかしサッカーの雰囲気としては、コルカタのほうがはるかに上だった。バンガロールでの試合は午後5時40分という早いキックオフだったためか、観客も少なく、しかも地元インドを応援するより揶揄(やゆ)するような声も多かった。
町のショッピングモールに、FCバルセロナやマンチェスター・ユナイテッドのユニホームを飾ってあるスポーツ店があった。しかし地元サッカークラブのユニホームを求めると、「そんなものはない」とすげなかった。この町で最も人気があるスポーツはクリケット。スポーツ店には、インド代表のクリケット選手たちの名前がはいった高価なTシャツが並べられていた。
イギリスの統治下にあったインド。サッカーの導入はアジアのなかでは最も早かった。1888(明治21)年にはイングランド・サッカー協会傘下の協会がコルカタにつくられ、その4年後にはカップ戦もスタートしている。
インドの全国リーグはつい10年前にスタートしたばかりだが、コルカタのチームがチャンピオンの座を独占している。コルカタは世界でも有数な「サッカーの町」であり、地元の強豪「イースト・ベンガル」と「モフン・バガン」が対戦すると9万人収容のソルトレーク・スタジアムが満員になるという。
しかし広大なインドのなかで、サッカーが大衆のなかに広く人気を得たのはわずかな地域だけだった。コルカタのほかに「サッカーの町」として知られるのは、インド亜大陸の西海岸にある旧ポルトガル領のゴアぐらいだ。経済の新しい中心地であるバンガロールも、サッカー人気が盛り上がらない町のひとつだ。ピッチの状態が悪かったのはそのせいかもしれない。
ヨーロッパでサッカーを見ていると、「標準化」という言葉が頭に浮かぶ。それぞれの個性や地域性はあっても、試合の運営やスタジアムのあり方などには、統一されたものがある。どこに行っても予想外のことは少ない。
しかしアジアでサッカーを見ていると、非常に多様であることに気づく。気候風土だけでなく、サッカーの試合を運営する考え方もスタジアムの使い方も、それぞれの都市でまったく違うのだ。当然、試合の雰囲気は大きく違う。
同じインドのなかでさえ、コルカタとバンガロールの違いに驚いた。アジアでの戦いとは、こうした多様性に対する順応力の勝負なのだと、つくづく思わされた。
(2006年10月18日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。