サッカーの話をしよう
No.627 ドーハ
あれはもう、13年も前のことになるのか...。
カタールのドーハで、アジア大会が始まる。サッカーには、男子がU−21日本代表、女子はA代表の「なでしこジャパン」が出場する。
アジア大会のサッカーは、1951年の第1回ニューデリー(インド)大会から開催され、その成功を受けて54年の第2回マニラ(フィリピン)大会時にアジアサッカー連盟(AFC)が結成されたという歴史をもつ。長い間、AFCが主催するアジアカップと並ぶアジアの主要大会だった。しかし2002年の釜山(韓国)大会から、男子はオリンピックと同じ年齢制限付きの大会となった。原則として23歳以下で、3人まで「オーバーエージ」を使うことができる。
1990年の北京(中国)大会から正式種目となった女子には年齢制限はない。各国ともフル代表を出して「アジアの女王」の座を目指す。ただし、ことしからAFCに加入したオーストラリアはアジア大会を主催するアジアオリンピック委員会に加盟していないため、残念ながら、優勝しても「真のアジア女王」ということにはならない。
しかし開幕が近づくにつれて増えてきた報道を見ながら、私は、この大会とはまったく別の、強烈な思い出にとらわれて仕方がない。おそらく、ある年代以上のサッカーファンであれば、多かれ少なかれ、「ドーハ」と聞けば遠い痛みを感じるのではないか。13年という年月、そしてその間に起こったことは、十分にその傷を癒したはずなのだが...。そう、「ドーハの悲劇」の名で記憶される93年のワールドカップ・アジア最終予選である。
94年ワールドカップ・アメリカ大会出場権をめぐって、アジアの6カ国がドーハに集結したのは、93年10月のことだった。参加は、初出場を目指す日本のほか、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、そしてイラク。1回戦総当たりのリーグ戦形式だった。アジアに与えられた出場枠はわずか2。「アメリカ」に行けるのは、上位2チームだけだ。
私にとっては、初めてのアラビア半島だった。これまで知らなかったイスラム圏での取材は、見ること聞くことすべて目新しいことだったが、残念なことに、カタールという国どころか、ドーハという町さえ十分に知ることはできなかった。猛烈に忙しい時期に2週間以上も日本を空けるのは周囲に大きな負担と迷惑をかけることだったし、私自身、試合がある時間以外はホテルにこもって大会とは無関係の原稿を書いていなければならなかった。
ハンス・オフト監督が率いる日本代表は、開幕当初の重圧から解放されると北朝鮮と韓国に連勝し、最終戦を前に首位に立った。しかし「勝てばワールドカップ出場」という状況で迎えたイラク戦で足が止まった。なんとか2−1とリードして終盤を迎えたものの、ロスタイムにCKから同点とされて2−2で引き分けた。「アメリカ」への切符を手にしたのは、サウジアラビアと韓国だった。
試合直後の混乱、大きな失望、喪失感...。仕事を終え、疲れ果てた日本のメディアを乗せたバスは、スタジアムからそう遠くないホテルへの道を間違え、この町で最も美しい地区である海岸まで出てしまった。
その海岸に沿った道路を、サウジアラビアのサポーターと思しき若者たちを乗せたたくさんの車が、クラクションを鳴らしながら走り回っていた。試合中にバックスタンドの背後に昇り始め、そのときには赤く大きかった満月は、もう海の上高く上り、青白く、そして小さくなっていた。
そのドーハの月が、アラビア半島では初めて迎えるアジア大会で、この13年の間に大きく成長した日本のサッカーチームの戦いを見守ることになる。
(2006年11月29日)
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