サッカーの話をしよう
No.629 負けても負け犬にはならない
「おろしてもいいから、すぐに上げろ」
隣からそんな声が聞こえてきた。高校1年になったばかりのこと。サッカー部の練習で腹筋のトレーニングをしていたときだ。
体力がなく、練習についていくのがやっとだった。最後の「筋トレ」は地獄のように感じられた。仰向けに寝ころがり、伸ばした両足を低く上げて何十秒か保つ。繰り返しているうちに苦しくなり、私は思わずうめき声を上げた。それを聞いた2年生のSさんがかけてくれた言葉だった。
その言葉を聞いたとたん、気が楽になった。何百キロもの重さに感じていた足が、急に軽くなった気がした。
それまで、私は苦しさに負けてはいけないと必死だった。Sさんの言葉は、そのときの私にはこう聞こえた。
「負けてもいいんだよ。でも負け続けてはだめだ」
2006年は日本のサッカーにとって苦汁をなめた年だった。国民的と言っていいほどの期待を集め、注目を浴びたワールドカップで、1分け2敗、グループ最下位。「日本のサッカーが世界に追いつく日など永遠にこない」などと言う人もいた。
「日本代表という車を、全員で押さなければならない」
ワールドカップ後に日本代表監督になったイビチャ・オシムは、就任の記者会見でこう語った。
日本代表チームは過去十数年間、それこそ右肩上がりで成長してきた。アジアを制し、ワールドカップ初出場を果たし、2回目の出場となった2002年大会では初勝利を挙げただけでなくベスト16進出という快挙を成し遂げた。
しかし世界中が激しく競い合っているこの競技で、永遠に成功し続けることなどできない。ことしのワールドカップでは期待した成績を残せなかったこと、負けたことを、力が足りなかったためだと素直に受け入れ、次に勝てるチームをつくるために立ち上がらなければならない。オシムの言葉は、そのために、立場の違いを超えて力を合わせようという呼びかけだった。
まだ20代の「ベテラン」たちを外し、思い切って若手を起用し続けてきたのは、ワールドカップに出場した選手の多くが精神的な張りを失っていると感じたからではないだろうか。経験の乏しい選手たちを育てると同時に、ベテランたちにリフレッシュする時間を与えようという考えだったに違いない。
冷静な分析もせずに「勝てる」と思い込むこと(それがワールドカップ前の日本の雰囲気だった)も、逆に努力もせずに「勝てない」と悲観してしまうことも、同じようにばかげている。人間にできることは、勝つために何をすべきかを必死に考え、妥協せずに実行することだけだ。
ひとつの年が終わろうとしている。勝って喜びを分かち合ったチームがあれば、それと同じ数だけ負けて悔しさをかみしめたチームがあるはずだ。「優勝」ということを考えれば、多くのチームのうち歓喜に包まれるのはわずかひとつ。残りはすべてその喜びを見守るだけの存在となる。
負けた者がしなければならないことははっきりしている。負けを認め、気持ちを切り替えて、新たな目標に向かって努力を始めることだ。
天皇杯の準々決勝では、ワールドカップ以後、負傷だけでなく精神的にも張りを失っていたような小野伸二(浦和)の躍動するようなプレーを見た。足の痛みはあっても、いまの彼には、「思い切りプレーしたい」という飢餓感にも似た精神の高揚がある。
勝負なのだから勝つときだけでなく負けるときもある。負けること自体は、けっして「悪」ではない。しかし負け続けてはいけない。負け犬になってはいけない。顔を上げて、戦いを続けなければならない。
(2006年12月27日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。