サッカーの話をしよう
No.647 海藤さんと奈良原さん
天候はなかなか安定しないものの、木々の緑が日々に濃くなっていくのがわかる。しかし日本の四季で最も心地良い5月に、相次いで悲しい知らせが届いた。私にとって仕事上の「恩人」が続けて亡くなられたのだ。
5月3日に海藤栄治さん(享年71歳)が帰らぬ人となり、12日には奈良原武士さんが69歳の若さで後を追うように旅立たれた。
海藤さんは、日本サッカーリーグ時代に本紙で健筆を振るわれ、卓球の報道でも高名なスポーツ記者だった。Jリーグのスタートを目前にした93年4月、当時運動部長だった海藤さんの「鶴のひと声」で本紙夕刊スポーツ面にサッカーのコラムを定期掲載することが決まった。海藤さんは本コラムの「生みの親」である。
運動部の記者だった財徳健治さんからの推薦を無条件に信頼し、海藤さんは、フリーのライターとしてはほとんど実績もなかった私に連載を任せることを決断された。以後、このコラムは私の仕事の根幹となった。
奈良原さんは共同通信のスポーツ記者として活躍された方である。60年代、創刊されたばかりの『サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)から海外情報の記事の依頼を受け、毎月寄稿するうちにサッカーにのめりこんだ。日本人記者としてワールドカップを初めて取材された数人のうちのおひとりである。1970年のメキシコ大会のことだった。サッカー界では「鈴木武士」の名前で執筆されていた。
79年から91年にかけては、ボランティアで日本サッカー協会機関誌『サッカー』の編集長を務められた。依頼した原稿がなかなか届かず、発行が遅れることもたびたびだったが、奈良原さんが丹精を込めて編集された全98巻は、当時の日本サッカーの貴重な記録だ。87年には『天皇杯六十五年史』、96年には『日本サッカー協会75年史』(ともに日本サッカー協会発行)という膨大な資料の取りまとめにもご尽力された。
私がフリーになったばかりの88年、「暇だろうから機関誌に何か書け」と奈良原さんから命じられ、9月開幕の日本リーグの新シーズンのプレビューを書いた。
しかし取材費など出ない。仕方なくすべて電話取材で済ませた。全12チームの監督の自宅に、夜、電話して話を聞いたのだ。まだそんなことができる時代だった。もちろん私は奈良原さんから言い渡された締め切りを守ったが、機関誌の発行はこの号も大幅に遅れ、「プレビュー」の記事が出たのは開幕して1カ月も経たころだった。なにはともあれ、これが私にとっての「デビュー作」だった。
「サッカージャーナリスト」と名乗ることにさえ、ためらいやとまどいがあった当時、海藤さんや奈良原さんをはじめとした先輩がたがチャンスを与えてくださったことを忘れることはできない。
合掌。
(2007年5月16日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。