サッカーの話をしよう
No.648 アピールする
最近、ひとつの言葉にひっかかって仕方がない。
「アピールする」
スポーツ新聞の選手のコメントに、毎日のように登場する言葉だ。たとえば日本代表の合宿に初めて呼ばれた選手の口から、判を押したようにこの言葉が出る。
監督に自分のいちばんいいところを見てもらい、認められたい----。その気持ち自体は、よく理解できる。
「サッカーはひとりでする競技」。Jリーグの育成年代を担当するあるコーチの口からこんな言葉を聞いたことがある。小学校から中学、高校、そして大学、あるいはJリーグへと上がるたびにチームを移る。新しいチームでは誰も自分のことなど知らない。なんとかして、認められなければならない...。
現在の日本のトップクラスの選手たちは、多かれ少なかれこうした環境で育ってきた。厳しい競争を勝ち抜き、自分の力を認めさせ続けてきたから、現在の地位がある。「アピール」は、別に新しいことではないのだろう。
しかし----。私はここでひっかかる。
サッカーという競技の目的は、チームとして相手に勝つことだ。もちろんリーグ表彰にも「MVP」や「得点王」があり、「個人記録」も残される。だがそれはすべて枝葉末節にすぎない。個々の選手のすべてのプレーはチームの勝利のためにあるはずだ。これまで新しいチームでポジションを得られたのは、勝つために必要な選手であることを証明できたからに違いない。
「チームが勝っても自分がいいプレーができなければ満足はできない」という気持ちは当然のことだ。しかし「チームは負けたけど自分は得点したから満足」などと思っている者がいたら、サッカー選手としては信頼に値しない。
信頼できる選手とは、チームの勝利だけを目指して戦い抜く選手だ。自分自身がどんな状況にあろうと、キックオフの瞬間から終了のホイッスルまで、勝つためにどうしたらいいかに集中し、考え、体を動かす選手だ。
そうした選手が初めて日本代表候補合宿に呼ばれたとしよう。彼は、チームがどんなサッカーを目指しているのか、監督の言葉や練習から考え、実行しようと努力するだろう。そして練習試合でやたらに1対1の勝負を仕掛けたり、無意味にボールをまたいだりなどしない。試合が始まったら、チームの勝利だけを考え、攻撃と守備を懸命に繰り返す。
そんな選手があちこちに出始めている。それは、日本において、「サッカーという文化」が広まっただけでなく、深まってもきたことのあかしのように思う。しかしその一方で、残念ながら、「チームゲーム」というサッカーの本質を理解しない選手がまだ数多くいることも事実だ。
心ある監督であれば、選手に「アピール」など求めない。チームの勝利に貢献できる「本物のサッカー選手」であるかどうかだけを見極めようとするに違いない。
(2007年5月23日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。