サッカーの話をしよう
No.662 スタジアムが笑った
次つぎと到着するバスから親子連れのファンが吐き出されてくる。水色のユニホームを着た少年たちが自転車に乗ってやってくる。
川崎市中原区、多摩川に近い緑地公園の中央に位置する競技場を目指し、続々と人が集まり、周辺にはお祭りのような気分が広がる。等々力競技場。Jリーグ川崎フロンターレのホームスタジアムだ。
2年前に2回目のJ1昇格を果たしたフロンターレは昨年来上位争いの常連だ。今季のホームゲーム平均観客数は1万7999人。昨年比25パーセント増というからすごい。以前は目についた2階の空席が、今季は目立たなくなった。
川崎市が所有する等々力競技場は45年の歴史をもち、日本サッカーリーグ(JSL)時代から使用されてきた。1983年、読売クラブ(現東京ヴェルディ)がJSL初優勝を飾ったのはこの等々力だ。そうした縁もあってか、ヴェルディはJリーグ化に際しこの等々力をホームスタジアムとした。
しかし当時の等々力は収容1万人。国立競技場で試合をしても必ず満員になる超人気クラブには小さすぎた。ヴェルディは東京への移転を示唆、川崎市は急いで競技場を大改装し、95年には両ゴール裏とバックススタンドにかけて2階席が広がる2万5000人収容の美しいスタジアムに生まれ変わった。
しかしそれが落成したころ、「Jリーグブーム」は終焉を迎えていた。ヴェルディの試合も空席が目立つようになり、2万5000人のスタジアムが満員になることはなかった。そしてヴェルディは東京西部に新スタジアムが完成するのを機に移転するという意向を隠さなかった。
かつて川崎には3つのJSLチームがあった。NKK、富士通、そして東芝だ。しかしNKKは93年限りでサッカー部の活動を停止し、東芝は96年に札幌に移転して「コンサドーレ」となった。唯一残ったのが富士通だった。富士通は97年にフロンターレと改称してプロ体制となり、99年にJ2に加盟、1年でJ1昇格を果たした。01年、ヴェルディが東京に移転、地味な印象のフロンターレが川崎サッカーの唯一の「看板」となった。
そうした歴史を、「等々力」は静かに見守ってきた。そしてようやくことし、毎試合のようにスタンドが観客で埋まるようになった。空席ばかりが目についたころにはスタジアムもどこかみすぼらしく見えた。しかしスタンドが埋まり、サポーターの元気な歌声に一般ファンも応じるようになると、不思議なことに、輝いて見えるようになった。
8月25日、2万人近いファンの前でフロンターレはガンバ大阪を4−1で下した。久々のホームでの勝利にスタンドのファンは大喜びだった。その日、スタジアムも幸福そうにほほ笑んだ。
(2007年8月29日)Jリーグ, 施設
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