サッカーの話をしよう
No.667 ベンチの話
「ベンチ・スタート」という妙な言葉が使われるようになったのは、いつごろからだっただろうか----。
監督、コーチ、ドクターなどとともにサブの選手が座るピッチ横の席を「ベンチ」と呼ぶ。競技規則(ルール)には何の規定もないためか、そのデザインや座り心地はスタジアムによってさまざまだ。
1880年代にはプロ選手が認められた英国だったが、初めて「屋根付きのベンチ」が誕生したのは意外に遅く、1920年代になってからのこと。スコットランドのアバディーン・クラブのD・コールマン監督が、ノルウェーに指導に行った際に見かけ、「これはいい!」と、帰国後さっそく自クラブのスタジアムにも設けさせたという。
コールマン監督はベンチにノートを持ち込んでいろいろとメモする人だったが、天候の悪いときにはノートがぬれて困り果てていたのだ。試行錯誤の末、クラブは、屋根をつけると同時に、ベンチをピッチレベルより少し掘り下げた位置に置いた。
なぜこのようなことになったかには諸説ある。
第1の説は、サッカーだけでなくダンスとボクシングを熱愛していたコールマン監督が、選手たちのフットワークを見やすくするためだったというもの。おもしろいが疑わしい。より説得力があるのは屋根をつけると背後のスタンドで観戦のじゃまになるため掘り下げたという説だ。「ダグアウト(防空壕)」と呼ばれたアメリカの野球場のベンチをまねたという説もある。
しかし当然のことながら、ふつう、監督たちはより高い位置から試合を見ることを好む。現在ではベンチはピッチと同じ高さに置かれるのが普通だ。国際サッカー連盟(FIFA)の「スタジアム標準」でもそう規定されている。
しかし不思議なことに、日本サッカー協会やJリーグにはベンチの「レベル」に関する規定はない。西が丘サッカー場(東京)や埼玉スタジアムなど「掘り下げ式」がいくつも存在するからだろうか。
ルールにないベンチの要件を、FIFAは「スタジアム標準」と名付けたガイドラインを発行して規定している。そして日本協会も、国内試合のための独自の「標準」を発表している。
ベンチは、ハーフラインをはさんで両エンドにひと組ずつ、ハーフラインとタッチラインの接点から測ってそれぞれの方向に5メートル以上、そしてタッチラインから5メートル以上離して設置される。収容数は、国内試合では「10人以上」、ことし改訂されたFIFAの標準では「22人」だ。FIFAは、「席は背もたれのあるもの」と、快適さも求めている。
観客の視線を妨げない透明の樹脂で作られた「シェル(屋根と背板)」の設置は必須だ。雨よけのためだけではない。観客席から投げつけられる物から選手や監督を守るためのものでもあると、「標準」は説明する。ノートをぬれないようにしてほしいと願ったコールマン監督が聞いたら、目を丸くするかもしれない。
(2007年10月3日)
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