サッカーの話をしよう
No.700 長沼健さんを悼む
巨星逝く―。
6月2日、日本サッカー協会最高顧問の長沼健さんが亡くなった。享年77歳。まだまだ日本のサッカーに不可欠な存在だった。
1930年広島生まれ。中学時代に被爆したが幸運にも助かり、戦後、瓦礫(がれき)の中でサッカー部を再興した。そして旧制の全国中学大会(現在の高校選手権)で優勝、以後、関西学院大学、中央大学、古河電工と、日本サッカーのひのき舞台を歩き続けた。
戦争後現代に至るまで、日本サッカーのマイルストーンは、その大半が長沼さんによって刻まれたと言っても過言ではない。
60年、古河電工の中心選手として実業団に初の天皇杯優勝をもたらす。東京、メキシコの両五輪では代表監督を務め、メキシコで銅メダル。その間に日本サッカーリーグ創設に奔走し、70年代半ばには日本協会専務理事に就任、短期間で協会財政を立て直した。
Jリーグ誕生時に協会側の調整役となり、94年協会会長に就任。96年ワールドカップ招致成功、98年には日本代表を初めてワールドカップに送り出す。大会後は2002年ワールドカップ組織委員会副会長の仕事に専念して大会を成功に導いた。世界広しといえどもこれほど広範な活躍を見せたサッカー人は類がない。まさに日本サッカーの巨星だった。
「親分肌」の一方、誰に対しても接し方は穏やかだった。サッカー記者として何十回もインタビューに応じてもらったが、駆け出し記者時代にも、50代の記者になっても、長沼さんの話しぶりはまったく変わらなかった。その豊かで温かな人間性にこそ、リーダーとしての本質があった。
あるとき、こんな話をしてくれた。
「(60年代の)代表合宿所の昼休み、芝生に寝ころんで選手たちととりとめのない話をしていたとき、自分の人生でいまほど幸福な思いを味わえるのは後にも先にもないんじゃないかと思いましたね。サムライが集まって、ひとつの目標に向かって確実に進んでいる。そのなかのつかの間のやすらぎ...。その幸福感のお返しというのが、その後の私の仕事のバックボーンになっているんですよ」
ワールドカップの招致活動は地球を何周もする忙しさだった。協会会長時代には苦労も多かった。しかしけっして苦悩の表情は見せなかった。きっといま、長沼さんは、代表合宿所の昼休みのような満ち足りた静けさのなかにいるに違いない。
合掌。
(2008年6月4日)
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