サッカーの話をしよう
No.717 求む救世主
「撮ったら、1枚送ってくれ」
そう言われて逆に驚いた。90年ワールドカップ・イタリア大会の終盤、8年後の大会に立候補しているフランスがローマ市内で記者会見をした。その会場、フランス高速鉄道の整備計画のパネルの前でのことだった。
写真を撮らせてもらったのはジュスト・フォンテーヌ。58年大会の得点王である。この大会、フランスは彼の13得点の活躍で予想外の3位に躍進した。
帰国後プリントを送ると、ていねいな礼状がきた。後には4個組のピンバッジももらった。「13得点、世界記録」と、そこにはあった。1大会での13得点は、50年後のいまも破られない大記録である。だがそのフォンテーヌ、実は大会前にはサブだったのだ。
1933年にフランス領だったモロッコで生まれ、20歳のときに本土のクラブに移籍。その年にワールドカップ予選のルクセンブルク戦に出場し3得点したが、フランスが23歳以下の選手だけだったため、公式代表記録には入れられていない。
その後、58年ワールドカップを迎えるまでに4試合のAマッチに出場したがわずか1得点。ワールドカップ代表にはいったものの、ルネ・ビラールのサブと考えられていた。
しかし大会直前にビラールが負傷、出番が回ってきた。そして初戦のパラグアイ戦でいきなり3得点の大活躍でチームを7-3の勝利に導くと、3位決定戦まで全6試合で得点を記録した。西ドイツとの3位決定戦では4得点をマークした。
大会前、フランスに注目する人は少なかった。フランス・チーム自体、ユニホームは3試合分しか用意していなかったという。天才MFレイモン・コパの存在はあったものの、つくったチャンスをゴールに結びつける選手なくしてこの成績はありえなかった。サッカーとは、プレーの質を競う競技ではなく、つまるところ、得点の数を争う競技だからだ。
今夜、日本代表はワールドカップ予選の重要な一戦をウズベキスタンと戦う。試合内容が良くなってきた「岡田ジャパン」。しかし勝負を決めるのは得点の数だ。この試合に限らず、いきなりゴールを量産する「救世主」が出てこないかと、いつも思う。そうなれば日本のサッカーは一気に世界に飛翔する。
フォンテーヌのような天才が、日本のどこかにいないとは限らないと思うのだが...。
ジュスト・フォンテーヌ
(2008年10月15日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。