サッカーの話をしよう
No.753 ベロンとエストゥディアンテス
7月16日、ラプラタ市の中央にある300メートル四方の広大なモレノ広場は、実に30万もの人びとで埋め尽くされていた。アルゼンチンの首都ブエノスアイレス市の南東約60キロに位置する人口70万人のラプラタ。広場に面した市庁舎のバルコニーに大きなカップをもった選手たちが現れると、広場は猛烈な歓声に包まれた。
大歓声のなかで、南米クラブ選手権「リベルタドーレス杯」を制覇したばかりのエストゥディアンテス主将フアン・セバスチャン・ベロンは、隣に立つ父親の肩を固く抱いた。
ベロンは現代のアルゼンチン・サッカーを代表するスターのひとりである。エストゥディアンテスで17歳のときにデビュー、20歳でアルゼンチン代表になるとともに祖国を離れ、イタリアやイングランドのクラブで数え切れないほどのタイトルを手にしてきた。
そして06年、31歳になったベロンは、祖国に戻る時期がきたと考えるようになる。ビッグクラブから巨額のオファーもあった。しかし彼は、近年はまったくタイトルから見放されていたエストゥディアンテスへの復帰しか考えていなかった。少年時代から熱愛するクラブだったからだ。
彼の父、フアン・ラモンも同じクラブのスターで、「魔法使い」と呼ばれていた。1968年から70年にかけてクラブはリベルタドーレス杯で3連覇を飾った。フアン・セバスチャンが生まれた75年にはその勢いはなくなっていたが、父は依然大スターとして攻撃陣を率いていた。
息子ベロンは、自分自身がスターになって祖国を離れても、クラブを忘れたことはなかった。クラブの財政に援助し、練習場の改装やユース世代の合宿所建設の資金を自ら進んで出していたのだ。
06年、ベロンを得たクラブは、実に23年ぶりに国内チャンピオンとなり、ことし、ついに39年ぶりで南米チャンピオンの座に返り咲いた。ホーム戦0-0で迎えたアウェーでの決勝第2戦、ブラジルのクルゼイロに先制されて苦境に立ったエストゥディアンテスだったが、ベロンが起点になった2回の攻撃で見事逆転に成功した。
ラプラタ市庁舎のバルコニー。30万の市民にカップを掲げる息子を見上げながら、父はこうつぶやいた。
「欧州でいくつタイトルを取っても、この子は満足しなかった。何より欲しかったのがこのタイトルであり、この場所で故郷の人びとと喜びを分かち合うことだったんだ」
(2009年7月22日)
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