サッカーの話をしよう
No.774 ダニー・ジョーダンの夢
ダニー・ジョーダン(58)がワールドカップを南アフリカに招致しようと決心したのは、1994年6月、アメリカ・シカゴでワールドカップ開幕戦を観戦した帰国の機内だったという。
この時期、彼の人生は激動期にあった。
ジョーダンは51年にポートエリザベスで生まれ、大学を卒業すると教師として働きつつ一時はプロサッカー選手としても活躍、32歳で引退した後は地域のサッカー協会の役員を歴任していた。
その一方で、彼は学生時代から反アパルトヘイト(人種隔離)活動にかかわっていた。イタリアでワールドカップが開催された90年の2月にネルソン・マンデラが釈放され「革命」に向け大きく前進すると、ジョーダンはポートエリザベスで新国家樹立のための委員長に任命される。
そして94年4月に初めて行われた全国民による選挙で、彼は国会議員に選出される。42歳。自らの仕事も南アフリカという国の未来もまだ混迷のさなかだった。そんな時期にワールドカップ招致を決心したのだ。
97年に南アフリカサッカー協会の執行理事に就任すると精力的に活動を始め、FIFAの仕事も歴任した。06年大会の招致はもう一歩でならなかったが、04年5月15日、ついに10年大会の南アフリカ開催が決まった。以後、地元組織委員会の委員長として休む間もなく走り続けてきた。
「サッカーが好きなら、誰でもワールドカップを夢見る。しかし大会が始まってふたつ目の世紀にはいったというのに、それを開催した国は南アフリカを含めわずか16カ国にすぎないんだ。本当に特別な瞬間だと思う」
昨年11月にジョーダン委員長にインタビューする機会があった。彼の青年時代には南アフリカはFIFAから追放されており、ワールドカップを夢見ることさえ不可能だった。自国開催のワールドカップを目前にした思いをたずねると、彼は一瞬遠くを見て、ゆっくりと、そして情熱的な口調でこう答えた。
「世界中の人びととの交流を通じて、南アフリカの人びとは自分たちの国を、自分たち自身をより深く理解するようになる。私たちの国は、この大会を通じて確実により良い場所になる。」
2010年の最大のイベント、ワールドカップ南アフリカ大会は、ダニー・ジョーダンというひとりの男の、サッカーへの情熱と、南アフリカの人びとの幸福を願う思いの結晶にほかならない。
(2010年1月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。