サッカーの話をしよう
No.819 スブヒディンのリーダーシップ
「申し訳ないが、あのときの判断についてはまだ話せない。でもぼくはルールに則って判断したつもりだ」
アジアカップ開催中のカタールで久しぶりに彼と話した。スブヒディン・モハド・サレー(44)。マレーシア人のレフェリーである。
04年アジアカップ(中国)準々決勝ヨルダン戦、日本の宮本主将の懇願を受けてPK戦の途中で使用ゴールを変えた。そのときのことは強烈な印象として残っているという。
最初に会ったのは04年アジアカップ開幕戦の翌日だった。小柄ながら非常に快活で、人を引きつける魅力をもった人だと感じた。
1966年11月17日生まれのスブヒディンはこのとき37歳。アジアカップ開幕戦の主審を任され、的確な判定で高い評価を得た。直後のアテネ五輪の主審にも任命されていた。AFC期待の若手レフェリーだったのだ。
その後、彼は国際審判員として順調とはいえなかった。05年のU-20ワールドカップではチームを組む副審のひとりが大会直前の体力テストに落ちて帰国を余儀なくされた。06年ワールドカップでは最終選考でもれた。
だが昨年、ついに彼は「ワールドカップ主審」の栄誉を手に入れた。全世界で30人という狭き門。アジアの主審はわずか4人だった。マレーシアからは過去に2人の副審がワールドカップに出場したことはあったが、主審は初めてだった。
しかし南アフリカで待ち受けていたのは、考えようでは落選より過酷で残酷な状況だった。アジアの他の3人が活躍するなか、彼は1試合も笛を吹く機会を与えられず、1次リーグの8試合で「第4審判」の役割を与えられただけだったのだ。
1次リーグの後半、なかなか指名がこないなか、彼とチームを組む中国人とシンガポール人の副審が不安と不満の表情を見せた。
「心配するな。明日(指名が)くるかもしれない。われわれレフェリーは、いつでも出られるように万全の準備をするだけだ」
彼はこう2人を諭したという。わずか3人でも、審判員も「チーム」である以上、主審はそのリーダーでなければならない。世界のトップにはなれなかったが、彼が主審として長期間にわたって高い評価を受けた背景に、優れたリーダーとしての資質があった。
ことしで国際審判員の定年。今回が最後の国際大会となる。その大会でも、彼は先頭に立ってトレーニングで周囲の若手を引っぱり、成熟した判定で試合を導いている。
(2011年1月19日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。