サッカーの話をしよう
No.828 ある不屈の物語
きょうは、「不屈の精神」をもったあるチームの話をしたい。
アフリカ南部にザンビアという内陸の国がある。世界でも有数の銅の産出国として知られ、64年10月、東京五輪の会期中にイギリスから独立した。
この国のサッカーが注目を集めたのは88年のソウル五輪。優勝候補のイタリアを、なんと4-0の大差で撃破したのだ。3得点を記録したカルーシャ・ブワルヤを中心にした若いチームは、当時約700万人のザンビア国民の希望の星だった。
94年ワールドカップのアフリカ予選、ザンビアは1次予選で圧勝し、モロッコ、セネガルとの最終予選に挑むことになった。初戦は93年5月2日、セネガルとのアウェー戦。その1週間前にアフリカ選手権予選をモーリシャスで戦ったザンビア代表は、帰国はせず、そのままセネガルに転戦することにした。
インド洋に浮かぶモーリシャスからアフリカ最西端のセネガルまで約9000キロ。ザンビア協会がチャーターした旧式の空軍プロペラ機は、給油のため途中のガボンに立ち寄った。そして離陸の数分後、連絡が途絶えた。18人の選手を含む30人の乗員乗客が、帰らぬ人となったのだ。
国民的な悲しみのなか、小さな慰めは、カルーシャを含む数人の選手がワールドカップ予選だけに出場することになっており、事故機に搭乗していなかったことだった。ザンビア協会は彼らを中心に新しい代表を組織し、ワールドカップ予選を継続することにした。
世界中から援助の手が差し伸べられた。デンマーク、オランダ、フランスなどの協会が合宿所を提供し、スコットランド人のイアン・ポーターフィールドが自ら新監督になることを申し出た。
7月4日、強豪モロッコとのホームゲームで最終予選をスタート。1点を先制されたが、カルーシャのFKで追いつき、2-1の逆転勝ちを収めた。そしてセネガルとの対戦を1勝1分けで乗り切ると、10月10日、ワールドカップ初出場をかけてモロッコのカサブランカに乗り込んだ。
引き分ければ出場権獲得という試合。だが後半立ち上がりに先制点を許す。その後、ザンビアは全身全霊をかけて反撃に出た。シュートがポストを叩き、バーを越した。そして90分が過ぎた。
ザンビアの夢はかなわなかった。しかし大きな悲劇を乗り越えた不屈の精神は、世界中に感銘を与えた。そして国民は、ワールドカップ出場にもまさる誇りを感じたのだった。
(2011年4月6日)
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