サッカーの話をしよう
No.843 森孝慈さんを悼む
森孝慈さん(享年67歳)は、日本サッカーの「巨星」だった。
1943年11月24日広島県福山市生まれ。修道高、早大、そして三菱重工(現在の浦和レッズ)を通じてMFとして活躍、68年のメキシコ五輪で銅メダル獲得に貢献した。
サッカー選手としての才能は、卓越した状況判断と攻守両面でチームを導く能力にあった。ていねいなパスでFWを自在に操るプレーは当時の日本サッカーリーグの華だった。
引退後は指導者となり、81年から85年まで日本代表を指揮。ワールドカップ初出場にあと一歩まで迫り、満員の国立競技場で繰り広げた韓国との死闘は、日本サッカー史の不滅の伝説だ。
後には浦和レッズ誕生の中心的人物になるとともに初代監督に就任。その初年度、92年には、当時世界で類を見なかった「ゾーンの3バック」に基づく3−4−3システムで熱気あふれる攻撃的サッカーをつくり出した。
「プロなら、ファンがもういちど見にきたいと思うような試合をしなければならない」の信念が、日本中の人びとの心をわしづかみにし、翌年のJリーグブームにつながった。もっとも、あまりに攻撃的だった浦和は、翌年、ひどいしっぺ返しを食らうのだが...。
Jリーグの成功に、森さんほど心を砕いていた人はいない。日本サッカーのプロ化は、森さんの人生をかけたテーマだったからだ。
85年、森さんはDF加藤久、MF木村和司を中心とする素晴らしい日本代表を完成させた。だがワールドカップ出場をかけた最終予選では、すでにプロ化していた韓国に力の差を見せつけられた。
「プロにするしかない」。それが森さんの結論だった。代表選手たちにもそう説いた。
だが森さん自身が三菱重工から日本サッカー協会への出向。生活を保証された「サラリーマン」の身分では、その言葉に説得力はない。だから協会に「自分をプロ監督にしてほしい」と要求した。
要求は受け入れられず、森さんはすっぱりと代表監督を辞任した。だがその石のような信念がやがて多くの人を動かし、Jリーグ誕生へとつながる。
どんな人に対しても飾らず、太陽のように周囲を明るくする人柄を、そして何よりも困難に直面したときに発揮された男らしさとリーダーシップを、愛さない人はいなかった。
なでしこジャパンが「世界一」になる7月17日の早朝、巨大な星が静かに流れた。
合掌。
(2011年7月27日)
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