サッカーの話をしよう
No.877 名犬ピクルスとワールドカップ盗難事件
オリンピックを4カ月後に控えたロンドンは、今週、穏やかな晴天が続きそうだ。しかし46年前、ワールドカップ開幕まで3カ月半となった66年3月の下旬は、どんよりと曇り、ときおり雨が降る憂うつな日々だった。
そんなある日、この年のワールドカップ開催国であるイングランド中を揺るがす大事件が起きた。ロンドン市内で一般公開されていたワールドカップが、こつぜんと姿を消したのだ。「ジュール・リメ杯」と呼ばれた初代の優勝カップは、都心で開催中の切手展の中央に展示されていた。
ロンドン警視庁は百人もの捜査員を動員したが手がかりはなく、殺到する怪情報に踊らされる始末。「身代金1万5000ポンド(当時のレートで1512万円)」を要求してきた男を逮捕したが悪ふざけと判明した。
事件が急展開を見せたのは盗難から1週間後、3月27日の夜だった。南ロンドンの住宅地に住む26歳の男が、「カップを見つけたぞ!」と、警察署に駆け込んできたのだ。
デビッド・コルベットは、この夕刻、街角の電話で弟に連絡を取ろうと、上着をはおり、部屋履きのまま家を出た。そしてついでに愛犬ピクルスを散歩させようと外に出した。コリーの雑種で、白黒のぶち犬。だが引き綱をつけようとしたとたんに走りだした。
「ピック!」
大声で呼んだが向かいの家の前に停めた車の下にはいって出てこない。のぞき込むと、ピクルスは何か紙包みを見つけ、においをかいでいる。拾い寄せるとずっしりと重い。新聞紙でくるみ、厳重にひもで縛ってある。
「爆弾ではないか」一瞬そう思った。当時IRA(アイルランドの武装組織)のテロが頻発していたのだ。勇気と力を振り絞って包みをこじ開けた。出てきたのは、羽を広げた女神が八角形のカップを頭上に掲げた黄金のトロフィーだった。
「カップなしのワールドカップ」は回避され、そのカップは初優勝を飾ったイングランドの手に落ちた。
今回は大きな事件もなく、オリンピックに向け、予定に従って粛々と準備が進められているようだ。だが1匹の犬を主人公にしたドタバタ喜劇のような、人間味あふれるエピソードも、もうない。
殊勲のピクルスは一躍スターとなったが、翌67年、不運な事故で6年の「犬生」を終えた。5月にマンチェスターで再オープンする「英国サッカー博物館」の展示には、ピクルスがつけていた革の首輪もあるはずだ。
(2012年3月28日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。