サッカーの話をしよう
No.887 あれから10年
6月にはいってからときどき、思いだし笑いが出て困っている。浮かんでくるのは、10年前の日々だ。
ワールドカップのアジア最終予選初戦で日本代表がオマーンに快勝した翌6月4日は、2002年ワールドカップ日韓大会の日本対ベルギーからちょうど10年目だった。
前日に蔚山(ウルサン)でブラジル対トルコを取材し、この日の昼すぎに成田に戻ってそのまま埼玉スタジアムに直行した。
スタジアムは「ジャパン・ブルー」一色に染まり、圧倒的な声援のなかで日本は勇敢な戦いを見せた。そして鈴木隆行(現在水戸)と稲本潤一(同川崎)のゴールで2-2の引き分けに持ち込んだ。ワールドカップで初めての勝ち点だった。
翌5日には日帰りで神戸に行き、日本と同じグループのロシア対チュニジアを取材、6日には埼玉でカメルーン対サウジアラビアを見た。そして翌日は札幌に飛び、1次リーグ最大の注目カード、アルゼンチン対イングランドだった。
5月31日にソウルで開幕してから6月30日横浜での決勝戦まで、1カ月間はまさに夢のように過ぎていった。日本がトルコに敗れた夜は悔しくて眠れなかったが、準々決勝でブラジルとイングランドの熱戦を目の当たりにして元気づけられる思いがした。
私のように仕事で大会を追っていた者だけではない。文字どおり日本中が青いユニホームに身を包んで声援を送り、稲本の決勝点に熱狂した。あの1カ月間を通じて、日本中の多くの人がサッカーを楽しみ、見知らぬ人びとと一体感を共有する喜びを知った。
だが「ワールドカップ地元開催」がもたらしたのは、日本代表への国民的な声援だけではなかったはずだ。
日本が敗退した後にもスタジアムを満員に埋め、素晴らしい雰囲気で大会を盛り上げた人びと。そして何よりも、言葉など通じなくても思いやりの心と笑顔で接することによって世界のどんな国の人とでも交流ができることを示した人びと。ワールドカップを理屈抜きに楽しいお祭りにしたのは、そうした人びとの存在だった。
以後のワールドカップの開催国が、私たち日本が韓国とともに世界に示した2002年大会をホスピタリティーの手本にしていることをご存じだろうか。
サッカーだけでなく日本社会に貴重な遺産を残した2002年ワールドカップ。同時に世界にも大きなものを残したことが、いまになってよくわかる。
(2012年6月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。