サッカーの話をしよう
No.893 剛胆そうで繊細 釜本邦茂の真実
本紙夕刊『この道』の釜本邦茂さんのシリーズも、明日で最終回になるという。
私がサッカーの取材を始めたのは73年、釜本さんが29歳のとき。ひと言で表せば「怖い人」だった。
身長179センチ。威圧感があった。質問すると、大きな目をぎょろりと見開いてこちらを見据え、短く、明快な単語を並べた。若造記者に太刀打ちできる相手ではなかった。だが釜本さんを身近に知るジャーナリストの賀川浩さんは、「豪快そうに見えるが実際には非常に繊細」と語る。
『この道』の第53、54回(7月6日、7日付け)に、現役引退のころのことが書かれている。84年元日の天皇杯決勝戦で日産に敗れて決断したようにも読めるが、もう少し前だったようだ。
釜本さんは78年に34歳でヤンマーの選手兼監督に就任、80年には4回目の日本リーグ優勝に導いた。だが82年5月に右のアキレスけんを切り、83年11月に復帰したが思うようにプレーできなかった。
年末の天皇杯でヤンマーは奮闘し、6年ぶりに決勝戦進出。釜本さんはどの試合も後半途中から出場し、日本鋼管を1-0で下した準決勝では決勝点のアシストも記録した。
元日の国立競技場を現役最後の舞台に―。釜本さんの脳裏に、73年元日に三菱に優勝をもたらして引退した杉山隆一さんの姿が浮かんだかもしれない。
しかし相手は日本代表に5人も6人も送り出す新進気鋭の日産。ヤンマーは立ち上がりから守勢一方となった。釜本さんは後半立ち上がりからピッチに立ったが、後半に2点を奪われ、4回目の優勝はならなかった。
釜本さんが引退を発表したのはそれから1カ月半もたった2月13日のことだった。
「日産を気遣ってのことだったんだ」
意外な話を聞いたのは、何年も後だった。話してくれたのは、当時日産の監督だった加茂周さん(後に日本代表監督)である。
「決勝戦後に引退を発表したら、新聞記事はそれに集中してしまい、日産の初タイトルなど吹き飛んでしまう。それを考え、彼は何も話さずに国立競技場を後にしたんだ...」
実は、加茂さんは釜本さんの引退の意思を察し、決勝戦の試合中であっても、彼が交代で退出する場合には全員で並んで見送れと、試合前に日産の選手たちに話してあった。
そんな相手監督の気持ちにさりげなく応える武士のように繊細な心遣いこそ、「釜本邦茂の真実」だった。
(2012年7月18日)
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