サッカーのムダ話
Talk8 ワールドカップ初取材
前回はサッカーで食べていくために一度は考えた指導者への道について語ってもらいました。今回はベースボールマガジン入社後、ワールドカップを取材に行くためにしたことや、初めてのワールドカップ取材について聞きました。
夢が叶った78年アルゼンチンワールドカップ
兼正(以下K)
「ワールドカップへ行きたい」という気持ちが強く、そして取材に行ける可能性が高かったため「サッカーマガジン」を選んだわけですが、入社したから絶対に行けるというわけではないですよね? そのあたりはどうクリアしたんですか。
良之(以下Y)
とにかくいろんな人にアピールしたよ。仕事もそうだけど、ちょっとした雑談の時なんかに「78年のワールドカップは......」って話題に出した。そうすると、自然と編集部の中でも「78年大住の番かな」っていう雰囲気になったんだ。
K
そういった強い気持ちが78年ワールドカップ現地取材を実現させたわけですが、実際に取材をしていちばん印象に残った試合はなんでしたか?
Y
やっぱり決勝のアルゼンチン対オランダかな。ただ、試合そのものも印象に残っているんだけど、それ以上にアルゼンチンのサポーターが作る会場の雰囲気がとっても強烈な印象だった。終わったあと、街中の道路という道路を車が埋め、クラクションを鳴らしながら狂喜乱舞する熱気も含めて、とにかくそれが強烈なイメージとして頭のなかに残っている。歴史的にみると、あの78年ワールドカップの評価ってそんなに高くないんだよね。クライフも本大会は結局出場しなかったし、いわゆるスーパースター不在の大会だった。でも、観客の作る雰囲気は凄かったね。
K
78年はケンペスが活躍した大会でしたよね。決勝戦ももちろん会場で取材されたと思いますが、なにか大変だったこととかはありましたか。
Y
心配がいくつもあった。そのひとつが日程だった。決勝の取材をしていたのが、「サッカーマガジン」のチーフだった僕とカメラマン4人。そのほかに読売新聞の牛木素吉郎さんや、共同通信社の奈良原武士さん(故人)らを含めた10人の団体で帰国用飛行機のチケットを取っていた。旅行会社が苦労してようやく確保してくれたのが、ブエノスアイレス→モンテビデオ→サンパウロ→ニューヨーク→アラスカ経由の日本といった航路だった。もちろん変更は不可。この大会までワールドカップではPK戦がなく、決勝戦が延長引き分けの場合には再試合という制度だったから、もうそれだけは止めてくれと思っていたよ(笑)。
K
もし再試合になっていたらどうしていましたか?
Y
そもそも再試合になった時のことなんて、考えてもいなかったんだよ(笑)。でも牛木さんに「大住君、このチケットは変更がきかないものだよね。もし再試合になったらどうする?」って指摘されて。それまで考えになかったことだから、どうしようか思案していたら、牛木さんが「俺はもし再試合になったら、その試合を見ずに帰るのは嫌だ」と言いだして(笑)。牛木さんはもともと海外経験が豊富な方だったから「再試合になったら俺がこの10人分のチケット、なんとかするから」って。牛木さんならなんとかしてくれるかもしれないとは思っていたけど、10人の帰国便については、僕が責任ある立場だったし、予約を確保するのさえ難しいチケットだったからね。もうどっちが勝ってもいいから勝敗が決まってくれって心から祈ってたよ(笑)。
K
取材も気が気じゃないですね(笑)
Y
そんなことを思っていたからかどうかわからないけど、試合は延長戦までもつれこんだでしょ。「あと30分で点が入らなかったら、いよいよ大変なことになる」って心臓がバクバク。そしたらケンペスがゴールを決めてくれて。「ヨッシャー! 帰れる!!」って叫んだよ(笑)。
ケンペスを引き寄せたエースカメラマン
K
大変な思いをされていたんですね(笑)。
Y
いや、実はそれだけじゃなかったんだ。決勝戦で割り当てられたピッチに入れるカメラマンは全世界で90人ほど。そのうち日本の割り当てがわずか2人。
K
少ないですね。
Y
そうなんだよ。日本からは「サッカーマガジン」が4人、「イレブン」や「朝日カメラ」からも来ていた。会社数にするとカメラマンは10社くらいから派遣されていたんだ。それまでであれば、経験もあり、国際的にも有名だった「サッカーマガジン」のカメラマンが主催者側から指名されるのが普通だったんだけど、この時はなぜか「日本人同士で勝手に決めてくれ」と言われて。それでみんなで開いた会議の結果、抽選会をすることになったんだ。でもさ、現場は抽選で仕方ないかって気持ちになれるんだけど、その雰囲気がわからない東京にいる編集長が「そんなバカなことあるか! 写真なかったらどうやって本を作るんだ!!」ってカンカンに怒っちゃって。
K
大変なことになりましたね。
Y
カメラマンたちは今ある枠ふたつをどうやって増やそうか考えた。会議で相談した結果、2枚のうちの1枚を前・後半で分けることで計3枠にしようと。その上で抽選した結果、「サッカーマガジン」が確保できたのは、前半だけの枠だった。前半の写真しか撮れない訳だからね。当時は編集者だったから誌面構成をどうしようか考えたもんだよ。とくに表紙ね。
K
表紙用の写真は結局どうしたんですか?
Y
決勝の舞台はリバープレートスタジアム。陸上トラック併設型スタジアムなんだけど、当日になってメイン側のスタンド前、両ペナルティーエリアの横あたりにカメラマン用の仮設スタンドが増設され、その仮設スタンドにはいるチケットを1枚手に入れることができたんだ。当時のサッカーマガジンの「エース」は、ヨーロッパで8年間も取材経験のあった富越正秀さん。当然「ゴール裏」と言うと思ったんだけど、彼はそこは別のカメラマンに譲って、「自分は仮設スタンドにはいる」と言うんだ。前半だけのゴール裏に陣取ったのは松本正さん。この人もヨーロッパで何年も写真を撮っており、非常に優秀な人だった。しかし試合が始まると、松本さんがカメラを構えているのはアルゼンチンのゴール。試合はアルゼンチンが攻勢で、オランダはなかなか攻め込めなかったから、いいシーンが訪れない。やきもきしていると、前半37分。アルゼンチンが攻め込んでケンペスがゴールを決めたんだ。そうしたら、ケンペスは両手を広げ、まさに富越さんのほうに向かって叫びながら疾走してきたんだ。
K
そうだったんですか。
Y
すごいと思ったよ、富越さんは。ケンペスが富越さんに向かって走ってくるんだよ。「これでだいじょうぶ」と直感したね。得点よりもそれに興奮したよ。もちろん、すばらしい写真だった。
K
しびれるようなお話ですね。
Y
本当にそうだよね。中島光明さんというカメラマンは、国内取材が中心の人で、ヨーロッパでの経験はなかったけれど、この人も凄かった。決勝戦の朝、ゴール裏の2階席にはいる入場券をどこからか調達してきたんだ。何を撮るのかと思ったら、アルゼンチン名物の「紙吹雪」を、それを投げるサポーターの真ん中にはいって撮った。ある意味でこの大会を象徴するすばらしい1枚になったんだ。まあ、いま振り返っても本当にいろいろなことが起きた大会だったし、そういった意味ではこれまで取材してきたワールドカップのなかでもいちばん印象深い大会だね。
→(続きは次回)