サッカーのムダ話

Talk13 苦しい状況が続いた日本女子サッカー界(女子サッカーとロンドン五輪 第4回)

前回は女子サッカークラブ「FC PAF」監督就任の経緯や、初の女子サッカーをテーマにした本を書き上げる上での制作秘話などを語ってもらいました。今回は女子サッカーチームの探し方や、日本サッカー協会と日本女子サッカー連盟の関係性について。


女子サッカーチームの探し方

兼正(以下K) 
ここまで、おじさんと女子サッカーとの関わりについてお話しを聞いてきましたが、おじさんに対する印象が少し変わってきた気がします。それと言うのも、僕も含めて、一般の方々はおじさんのことを「女子サッカー取材の先駆者」のような見方を少なからずしていると思うんですが、ご自身ではどう思われていますか?

良之(以下Y) 
それはまったく違う。89年に日本女子サッカーリーグが始まったわけだけど、開催日が日曜日だから、ちょうど「FC PAF」の試合と重なってしまうんだよね。だから現在に至るまで、女子リーグの取材にはほとんど行けていない。

K 
いまでも監督をされている「FC PAF」の練習や試合の頻度はどれくらいですか?

Y 
練習は火・木・土の週3回。そして日曜日は試合。公式戦がなければ、必ず練習試合がはいる。選手の大半はウイークデーの昼間は仕事をしている。学生も何人かいるけどね。ただ、最初からそんなカッチリした感じではなかったよ。ウイークデーの練習には人もあまり集まらなくて、他のチームの練習に混ぜてもらったりとかもしていたな。

K 
じゃあおじさんは、トップリーグの取材というよりも「FC PAF」などを通した"現場"との結びつきのほうが強いわけですね。

Y 
もちろん日本女子代表の試合などの取材は行ける限り行ってきたけど、僕なんかよりはるかに多く取材している人はたくさんいる。何年も時間をかけて取材をして、ようやく最近の盛り上がりで日の目を見たって言う人もね。でも『がんばれ!女子サッカー』を書いたころ(2004年)は、女子サッカーを頻繁に取材し、豊富に知識をもっている人などほとんどいなかった。女子サッカーが取材の対象になったのは、『なでしこジャパン』の名前ができた2004年以降のこと。インターネットという形式の発表媒体ができてからだと思う。

K 
ちなみにその『がんばれ!女子サッカー』ですが、巻末に各都道府県のサッカー協会の連絡先が掲載されていますね。これはなぜですか?

Y 
この本はアテネオリンピック出場で盛り上がりを見せたときに出したわけだけど、サッカーをやりたい女の子って、04年の段階でも孤立していたんだよね。ネット情報などもほとんどなくて、日本サッカー協会も積極的には情報を発信してなかった。それでこの本を読んでくれた女の子が「サッカーをやりたい!」って思ってくれたときにどうしたらいいかって考えたんだ。

K
なるほど、興味を持った方に向けた情報だったんですね。

Y
うん、具体的な情報を得るためには、各都道府県のサッカー協会に電話をして、「私の住んでいる地域にどんな女子チームがありますか」って聞くしかなかったからね。電話をすれば、女子サッカー担当の人が「あなたの近くにはこういうチームがあります」と紹介してくれる。

K
サッカーを始めるにも簡単にはいかない状況だったわけですね。

Y
04年の盛り上がりもあって、徐々に女子サッカーを取り巻く状況が変化してきて、協会も女子チームを検索できるサイトを作ったけどね(http://www.jfa-teams.jp/)。ただ、この本の出版時に女子サッカーチームを探すのに手段は、やっぱり都道府県のサッカー協会に電話をすることだった。


日本サッカー協会と日本女子サッカー協会

K 
日本サッカー協会としての04年以前の取り組みはどうだったんですか?

Y 
大きく変わったのが02年。川淵三郎さんが会長に就任してからだと思う。それ以前は、女子の強化にそれほどの予算は割かれていなかった。女子サッカーは90年にアジア大会の正式種目になったんだ。96年にはオリンピックの正式種目になった。これはアメリカが女子サッカー世界№.1だったから、「金メダルいけるぞ」って正式種目に採用された背景があったみたいだけど。女子のワールドカップは91年に始まっている。そのすべてに日本は出ているんだよね。

K
90年代初頭にアジアで強かった国はどこでしたか?

Y
中国と北朝鮮。韓国はまだ強くなかった。その前に台湾が強い時期があったんだけど、このころには日本のほうが強くなっていた。タイも強かったな。そんななかで、90年のアジア大会でいきなり銀メダル。それでも協会は女子サッカーに全然予算を割かなかったんだよ。

K 
それはどうしてですか?

Y 
基本的なスタンスが「自助努力をしなさい」ということだったんだ。現場の人たちで勝手にやってくれという意味ではなくて、女子代表の強化費や普及事業にかける資金は、女子サッカー界が自分たちの努力でつくって活動しなさいということだった。1980年代までは日本サッカー協会の財政規模も現在とは比較にならないほど小さかったから、女子だけでなく、いろいろな連盟に対して同じスタンスだった。1979年に日本サッカー協会が女子を仲間に入れるときにつくらせた「女子サッカー連盟」は自分で何とかしなさいという形だった。

K 
女子サッカー連盟は日本サッカー協会とは別組織だったんですか?

Y 
日本サッカー協会の傘下の組織のひとつという形だった。日本サッカー協会の下に「メンバーシップ」と呼ばれる47の都道府県のサッカー協会がある。それとは別に各種連盟というのがあるんだ。Jリーグもそうだし、JFLや大学サッカー連盟もそう。自治体職員サッカー連盟なんかもあってね。そのなかのひとつに女子サッカー連盟があったんだよ。

K
日本サッカー協会が主導していたわけではなかったんですね。

Y
現在は女子サッカー連盟は発展的に解消されて、日本サッカー協会が直接女子サッカーの運営に当たっているけど、初期のころはそうだった。自分たちで大会を開催して、入場料収入などで強化のやりくりしなさいと。でも女子の大会に観客なんて集まらないから、連盟も資金をつくれず、80年代のある時期までは、海外遠征に行くにしても半分は選手たちの自費という形だった。

K
あとの半分は?

Y
三菱重工を中心とした企業に無理をいってお願いした。当時、日本を代表するサッカーチムのひとつが三菱重工(現在の浦和レッズ)だったんだけど、ユニホームもシューズもプーマだった。リーベルマン(シューズ輸入)、ヒットユニオン(ユニホーム製作)といった「プーマグループ」が三菱とのつきあいのなかで用具を提供し、遠征費の半額は三菱グループで出してくれたりしていた。三菱重工サッカー部のOBで、後にJリーグの専務理事になった森健兒さんが非常に骨を折ってくれたんだ。初代の日本女子サッカー連盟の会長も、三菱重工サッカー部のチームドクターだった大畠襄先生(慈恵医大)が引き受けてくれた。79年度から始まった全日本女子選手権(現在の皇后杯)も東京の巣鴨にある三菱養和会のグラウンドを貸してもらって開催していたし、日本の女子サッカーの黎明期は、三菱グループの協力なしに考えられなかったね。

K 
なるほど。

Y 
だから、ある遠征の時には、パンツに三菱のマークがついているなんて事もあったよ(笑)。

K 
代表のユニフォームにですか?

Y 
そう、日の丸がエンブレムとして使用されていたころ。三菱だってそういうかたちじゃないと、会社からお金出せないからさ。中国に遠征に行ったときはちょっと問題になったこともあったようだね。

(次回に続く)

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
サッカーのムダ話について 大住良之の甥、大住兼正(サッカーライター見習い中)と繰り広げるエンドレス・サッカートーク!取材の裏話や記事にならなかったコボレ話など、ここでしか読めない貴重な内容満載の対話連載です。

企画、構成 : 大住兼正

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