サッカーの話をしよう
No.916 創造性あふれる少年を育てた近江達さん
独創的な指導論で1970年代の半ばに日本中の少年サッカー指導者に大きな影響を与えた近江達(おうみすすむ)さんが1月11日に永眠された。83歳だった。
本職は外科医。大きな病院の外科医長として、人命を預かって神経をすり減らすような仕事のかたわら、40代を迎えたころ、大阪府の枚方(ひらかた)市で少年サッカーの指導を始めた。
1970年、日本のサッカーは世界から取り残されていた。メキシコ五輪銅メダルはあったものの、技術、戦術、体力とあらゆる面で世界との差は絶望的なまでに大きかった。「サッカーは日本人には向いていない」という見方まであった。
そんななか、近江さんは世界に通じる技術や創造性をもった選手を育てようと、ドリブルなどの独自の練習方法を考案しつつ、紅白戦を主体とした練習を続けた。ほとんど口をはさまず、子どもたちの自主性に任せた。数年後、小学6年生となった子どもたちは、近江さん自身さえ驚かせる成長を見せる。そして確信を得る。
「以前はブラジル人のボール扱いが人間わざと思えなかったものだが、少年たちの技巧に自信を得た今では、別段驚くほどのことはない、それどころか素質では、日本人の方が白人よりも上のような気がする」(『サッカーマガジン』75年2月号「少年サッカーをもういちど考えよう」)
「最近イマジネーションや戦術的能力の不足を嘆き、よい教育法を求める声が大きくなりつつあるが、私の体験では、教えないで、小さいときから、選手がゲームに熱中して、自分で考え工夫するのが一番よい」(同)
そうしたなかから、後に日本代表になる佐々木博和という天才少年が出現する。その技術、想像力と創造性は今日の日本代表選手も及ばない。間違いなく「近江理論」の正しさの証明だった。72年に近江さんが書いた『サッカーノート』(上下巻、自費出版)は、当時の指導者たちに大きな影響を与えた。
近江さんは1929年神戸生まれ。神戸三中、旧制松江高、京都大で選手として活躍した。神戸の六甲小学校で担任が休み時間にサッカーで遊んでくれたことが、サッカーへの愛情の始まりだった。
近江さんのような指導者のおかげで現在の日本サッカーは世界でも認められる技術をもつに至った。だが彼が目指した「自分で考え、創り出すことで世界をリードする選手」はまだいない。遺されたその高い志を、日本中の指導者が受け継がなくてはいけない。
(2013年1月23日)
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