サッカーの話をしよう
No.922 香川の才能を際立たせたゴール
「シュートはゴールへのパス」と教えてくれたのは、岡野俊一郎さん(元日本サッカー協会会長)だった。なるほどと思ったが、これが簡単ではない。
ペナルティーエリアにはいると、相手のプレッシャーもそれまでの比ではないほど強くなる。「チャンス!」と思った瞬間に、体のどこかに力がはいる。力いっぱい足を振るのが精いっぱいで、「パス」どころではない。
英プレミアリーグ、ノリッジ戦での香川真司(マンチェスター・ユナイテッド)のハットトリックは見事だったが、その2点目は格別だった。
1-0で迎えた後半31分、ロングパスを受けて右からFWルーニーが突破。切り返しで相手DFをかわし、ペナルティーエリアに走り込んでくる香川の前に丁寧にパスを送る。
香川の正面にはノリッジDFターナー。香川がゴール左隅にシュートすると読んで、シュートをブロックすべく、左に滑り込んだ。ルーニーがボールをもっていたときには右ポスト前に位置していたGKバンも、素早くステップを踏んで左に移動していた。2人の対応に誤りはなかった。
だが香川は決めた。全速で走り込んできた勢いをふっと殺し、タイミングを微妙にずらしてボールを右足のインサイドに当ててゴール右隅に送り込んだのだ。シュートというより中盤の密集のなかでスペースにパスを送るようなプレー。微塵の力みもないのは驚きだが、このゴールの非凡さは、なによりシュートのコースにある。
右からのクロスに合わせるシュートを右隅に送り込むのは、実は理にかなったプレー。相手GKはシュートに備えて右ポスト前から中央にポジションを移す。左へのシュートなら動きの「順」の方向に跳んで守ることができる。右に打たれると動きの逆をつかれる形になる。だがプロでも右からクロスを受けると左隅を狙うことが圧倒的に多い。左が空いていると思うからだ。
香川が見ていたのは相手選手やカバーされていないゴールへのコースではない。2人の動きの「ベクトル」だった。ルーニーがパスを出した瞬間にはゴール右を塞いでいた2人が自分のシュートに対してどこを塞ぐことになるのか、彼らの動きのベクトルを見ることでイメージを描き、「一瞬後に生まれ出るスペース」に「パス」を送り込んだのだ。
香川のゴールは数多く見てきた。しかしこれほど彼の才能を際立たせたものはなかったように思う。
(2013年3月6日)
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