サッカーの話をしよう
No.928 チェルシーファンが教えてくれた
「入場券がないのか? 1枚余ってるぞ。いっしょに行くか?」
熊のような大男に突然そう言われて、岩田洋平さん(25)は一瞬ひるんだ。吹っかけられるのか、それとも...?
名古屋に住むシステムエンジニアの岩田さんは、昨年11月、週末をはさむ3日間の休暇を取ってロンドンに旅行した。大好きなリバプールがロンドンでチェルシーと対戦する。現地で見る絶好機だ。
出発前に入場券を押さえることはできなかったが、「現地でなんとかなる」と出掛けたのだ。だが試合日にスタジアムに行っても、法外な料金を取るダフ屋しかいなかった。
せめてみんなで応援する雰囲気だけでも味わおうと、近くのパブにはいった。
ところがキックオフまで30分ほどになると客が次々と帰っていくではないか。主人も店じまいの支度を始めている。予想外の事態。困惑しているところに声をかけられたのが、冒頭の大男だった。
考えている時間はなかった。岩田さんは意を決して「危険」に飛び込むことにした。
スタジアムまで歩いて20分。厳しいセキュリティーチェックがあってキックオフには間に合わなかったが、岩田さんは無事チェルシーファンで埋まる北側のゴール裏スタンドに座ることができた。
後は夢の時間だった。4試合の出場停止から復帰したテリー主将のゴールでチェルシーが先制。そのテリーが負傷退場し、後半、リバプールに追いつかれて1-1の同点で終了したが、立すいの余地もないほどに埋まったスタンド、サポーターたちの歌声...。体いっぱいで「プレミア」を感じた90分間だった。
連れていってくれた大男はロブソンさん。チケット代金は受け取ろうとしなかった。それどころか、試合後に再び開いたパブに戻り、そこで「日本からわざわざチェルシーを見に来てくれたんだ」と紹介されて、大歓迎を受けた。実はリバプールを見に来たとは言い出せず、しまいには心からのチェルシーファンになってしまった岩田さんだった。
働き始めたものの自分の非力さに不安をかかえていた岩田さん。
「自分だけで生きていくのではなく、多くの人に支えられながら生きていくんだということを、サッカー、ロンドン、そしてチェルシーファンに教えてもらいました」
ホテルの部屋に戻ってひとりになったとき、あまりの幸福感、感謝の思いに、岩田さんはとめどなくあふれてくる涙を止めることができなかった。
岩田洋平さん提供
(2013年4月24日)
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