サッカーの話をしよう
No.939 炎天下の試合は体罰に等しい
梅雨が明けたと思ったら、いきなり猛烈な暑さとなった。例年より15日も早くやってきた真夏。ことしの夏は長くなりそうだ。
猛暑は「サッカーの敵」だ。真夏の炎天下での試合など、プレーヤーの健康を考えれば本来あってはならないことだからだ。
小学校の理科で習うことだが、「気温」とは、「地上1.5メートル、風通しの良い日陰」で測るもの。気温35度であれば炎天下のグラウンド上では軽く40度を超す。人工芝ならさらに熱い。人類にとって激しい運動などできる環境ではないのだ。
だが日本では、その真夏の炎天下で無数といっていいサッカーの試合が行われる。夏休みで各種の大会が集中し、日本サッカー協会が主催する各種の全国大会も12を数える。多くが18歳以下の少年少女の大会だ。
もちろん、どの大会でも熱中症予防には万全の対策が取られている。練習時からの給水が推奨され、試合中には「給水タイム」も設定される。熱中症予防指導も行われている。
だがやはり、この時期の日中の試合は禁止するべきだ。なかでもまだ自らをコントロールできない若い世代の試合は危険すぎる。スポーツは生きる喜びのためのもの。健康や、悪くすれば生命の危険を冒す価値のあるものではない。それはスポーツではなく「冒険」と呼ぶべきものだ。
ことし前半、日本のスポーツ界は「体罰」の問題で揺れた。表面化したのは「氷山の一角」に過ぎない。直接的な暴行こそ減っていても、暴力に近い理不尽な指導や、指導者からの言葉の暴力に傷つき、苦しんでいるプレーヤーは無数にいる。
問題の根源は、「プレーヤーの人権」に対する指導者たちの意識の低さにある。プレーヤーたちにとって絶対的な権力者である指導者が、プレーヤーが人間であることで当然にもつ権利や価値に目を向けないことだ。
「真夏の炎天下の試合」も、「人権無視」という面で「体罰」に等しいのではないか。
少年少女は、自分たちが生まれる前から存在する「全国大会」にあこがれ、何の疑問ももたずに真っ黒になって練習し、炎天下の試合に飛び込んでいく。だが大人が冷静に考えれば、こんな状況で試合などやらせるべきでないのは、簡単にわかるのではないか。
この時期にどうしても試合をするなら、夜間か、日没近くの夕刻に限るべきだ。「施設が足りない」と言うなら、まず増やすための努力をするのが、大人の責務というものだ。
(2013年7月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。