サッカーの話をしよう
No.999 鹿島アントラーズ 23年間で築いた伝統
「さまざまなことが総合的にこのクラブの伝統を継承・継続させる要素になり、クラブにかかわるいろいろな人がその次の世代のタネをまき水を与えて、選手が積む経験が肥料となって花開いてきた」
Jリーグ逆転優勝をかけて首位浦和に挑んだ鹿島アントラーズ。日曜日(10月26日)の試合は1-1の引き分けに終わったが、トニーニョセレーゾ監督は若い選手たちの戦いぶりを誇らしげにこう話した。
今季の鹿島は開幕から先発の半数が二十歳そこそこの若い選手たちで占められた。経験不足で崩れるのではないかと懸念されたが、終盤まで優勝争いに踏みとどまる奮闘には驚かされた。浦和を相手に一歩も引かない戦いを見せたこの試合からは、鹿島が積み重ねてきた23シーズンで生まれた「伝統」が感じられた。
クラブ誕生は1992年だった。日本サッカーリーグで1部と2部を行き来する地味なチームだった住友金属が、92年に始まる新しいプロリーグ参加に名乗りを上げたのが90年。翌91年夏、引退していたブラジルの伝説の名手ジーコ(当時38歳)と、世界を驚かせる契約をしたことが、このクラブの運命を決めた。
その天才でチームを牽引したにとどまらず、ジーコはクラブ組織、クラブハウスや練習場など、プロサッカークラブづくりのあらゆる側面で提案を出し、クラブはその具現化に全力を注いだ。そして何よりも、若い選手たちにプロとして生きる姿勢、練習や試合への心構え、勝負に対する厳しさなどを伝えた。
「ジーコイズム」の継承こそ、鹿島の力の源だった。23シーズンで指揮をとった監督は10人。初代の宮本征勝(故人)、短期間代行を務めた関塚隆を除く8人がすべてブラジル人であることでも、ひとつの哲学が貫かれてきたことがわかる。そしてどこよりも多くのタイトルが生まれた。Jリーグ7回、天皇杯4回、ナビスコ杯5回は、いずれもこの期間の最多優勝記録だ。
一貫したプレースタイルの下、厳しい競争環境のなかで選手が成長し、23シーズンで30人を超す日本代表選手が輩出されてきた。代表選手を獲得したのではない。大半は、鹿島でプレーして日本代表に選ばれた選手たちだ。
他クラブがそのときどきの経営者や強化部長の考えで揺れ動くなか、鹿島はひとつの哲学で強化を進めてきた。とくに1996年に強化部長就任以来、ジーコイズムを継承することを自らの責務としてきた鈴木満さんの存在は大きい。
プロ2年目、20歳の若手にも、23年間の歴史と伝統が立派に受け継がれている。ひとつの哲学を貫くこと、継続の力を、あらためて感じる。
(2014年10月29日)
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