サッカーの話をしよう
No.1008 パレスチナ代表 祖国に誇りと喜びを
2年前にヨルダンに行ったとき、南部の遺跡を訪ねた。道中、かなたに死海が広がるのを見て感動を覚えた。その死海の西側では、パレスチナの人びとが厳しい状況のなかで生きている...。
第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となってからユダヤ人の入植が進み、第二次大戦後にイスラエルと分離されたパレスチナ。その後四次にわたる中東戦争を経て、国際的に認められた自治政府ができたのが1994年。国際サッカー連盟(FIFA)加盟は4年後の1998年。だが安全面の問題で国内での国際試合はできず、ようやく実現したのは2008年のことだった。
日本は、過去2回、23歳以下で戦うアジア大会でパレスチナと対戦したことがあり、昨年の仁川大会では4-0で勝利を収めている。だがA代表では、来週月曜日(1月12日)、オーストラリアでのアジアカップが最初の対戦だ。
パレスチナにとっては主要な国際大会決勝大会のデビュー戦。FIFAランキングは113位(日本は54位)。だが侮ることは許されない。
国内リーグはセミプロだが、外国のクラブでプレーするプロが6人含まれている。スウェーデン生まれのFWダダ(21)はスウェーデン代表の誘いをけってパレスチナ代表でプレーすることを選んだ。
エースであるFWのヌマン(28)は、サウジアラビアでプレーしている。イスラエルに国境を管理されて自国からの自由な出国さえ許されない祖国の人びとに、ヌマンは思いを馳せる。彼には以前、帰国のおみやげにと子どもにおもちゃを持って帰ろうとしたとき、国境で没収されたという屈辱的な思い出があるのだ。
大会を前に、パレスチナは2つの打撃を受けた。
ひとつはこの国にアジアカップの出場権をもたらしたマハムード監督が9月に辞任を余儀なくされたことだ。ガザ地区にある自宅がイスラエルの進攻で破壊され、家族を守るためにサッカーから離れなければならなくなったのだ。
そしてもうひとつは、チリでプレーするFWジャドゥエ(21)の国籍変更が間に合わなかったことだ。父の祖国パレスチナでプレーすることを熱望していたが、年が明け、大会の登録期限になってもFIFAの許可はこなかった。
しかし日常生活は依然として厳しく、打撃があっても、選手たちは前向きだ。
「僕たちはパレスチナの人びとに誇りと喜びをもたらしたい。そしてこの大会を通じて、パレスチナの名を世界に知ってもらいたい」というスロベニア生まれのMFフバイシャ(28)の言葉は、チーム全員の思いだ。「スポーツマンは政治家たちより良き外交官であることを、僕たちは示せると思うんだ」
(2015年1月7日)
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