サッカーの話をしよう
No.1012 小川佳実さん 審判の向上でアジアに貢献
「各方面の協力を得て、充実した大会ができました」
AFCアジアカップ・オーストラリア大会の23日間を振り返って、アジアサッカー連盟(AFC)の審判部長・小川佳実さん(55)は自信にあふれた笑顔を見せた。
今大会は15カ国から48人の審判員が任命され、32試合を担当した。もちろん誤審もあったが、2006年に着任してから小川さんが取り組んできた若いレフェリーの発掘などが実を結び始め、アジアの未来を担う若いレフェリーの台頭が見られて大きな成果を得た。
静岡県焼津市出身、藤枝東高、筑波大を経て、小川さんは故郷で県立高校の体育教師となった。そして1991年、32歳の年の高校総体(静岡で開催)をきっかけに本格的に審判に取り組むようになると、Jリーグの初期に活躍、1994年には早くも国際主審になった。
このころ、私は確か平塚で小川さんが笛を吹くのを見て「こんな優秀な主審がいたのか」と驚いた覚えがある。1994年にはナビスコ杯決勝戦も担当している。ところが故障と病気により38歳の若さでの引退を余儀なくされる。
しかしその後日本サッカー協会(JFA)の審判業務で実力を発揮する。審判部長となって現在のプロレフェリー制度(2002年~)や、アジアカップで準決勝まで3試合の笛を吹いた佐藤隆治主審を輩出したレフェリーカレッジ(2004年~)の実現にこぎつけた。
当時、JFAはアジアのサッカーにどう貢献するかを模索しており、AFCに送り込む人材を探していた。川淵三郎会長から「いつ帰ってきてもいいから、とにかく2年間行け」と命じられ、AFCの審判部長に着任したのは2006年の9月のことだった。
当初、審判部は部長を含めても3人。いきなり審判委員会の会議進行を任されて混乱したこともあったが、翌年のアジアカップ(東南アジア4カ国で共同開催)で1カ月間に3㌔も体重が落ちるほど働いて大きな評価を受ける。
以後スタッフを増やし、新しい企画を次々と実行に移した。審判のためのセミナーを続々と開講させ、若いレフェリーを発掘し、各国の審判環境改善のために駆け回った。
「どの国も選手強化には力を入れますが、審判というのは最後なのです。若い審判員たちはしっかりとした教育に飢えています。地道な取り組みのおかげで若い魅力的なレフェリーが出始めています」
この9年間、AFCのなかで審判への理解が深まり、小川さんにとって3回目のアジアカップが終わった。
「審判員たちも、アジアのレベルを上げようと全力でやっています」と語る表情には、充実感が満ちていた。
(2015年2月4日)
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