サッカーの話をしよう
No.1018 差別のないスタジアム、差別のない社会を
「あの日」から1年が過ぎた。昨年3月23日、埼玉スタジアムで浦和レッズが「無観客試合」を強いられた日だ。
Jリーグ史上かつてない厳罰の理由は、「差別的な内容の横断幕掲出」だった。以後浦和レッズは全力を傾けて再発防止に当たってきた。他のクラブも、神経をすり減らしてきたに違いない。
スタジアムでの人種差別行為などあってはならない。しかしやっかいなのはプロのスタジアムだからこうした行為が起こるのではなく、その社会に差別を生み出す要因があって、スタジアムはその「はけ口」にすぎないことだ。そして現在の日本社会には差別を生み出す要因が十分ある。
プロのサッカーの場での最初の人種差別行為は1909年のイングランドでのこと。トットナムのFWウォルター・タルに対し、ブリストル・シティのサポーターが侮蔑的な言葉を浴びせたのだ。
タルはイングランド南東部のケント州生まれ。父は西インド諸島のバルバドスからきた大工だった。父方の祖母はサトウキビ・プランテーションの奴隷だったという。
7歳のときに母をガンで、次いで9歳のときに父を心臓病で亡くし、褐色の肌をしたウォルターはロンドンの孤児院に預けられた。生まれもっての運動能力でサッカー選手としての頭角をあらわしたのは、この孤児院でだった。
アマチュアチームを経て、1909年、21歳のときにロンドンの名門トットナムとプロ契約。そして9月にイングランド・リーグにデビューした。しかし7試合目に事件が起きた。ブリストル・シティとのアウェーゲームで差別的な罵声を浴び、クラブは彼をレギュラーから外した。
当時のブリストルは王立造船所の建設で沸き、植民地から多くの労働者が集まっていた。タルへの罵倒は、急速な有色人種の増加への社会的ストレスが生んだものだった。
その後タルはノーサンプトンに移籍。後にアーセナルで大成功するチャップマン監督の下で充実した選手生活を送った。そして1914年に第一次大戦が始まると陸軍に志願、英国陸軍で初めての有色の将校になるなどリーダーシップを示したが、戦争終結の8カ月前、1918年のきょう、3月25日に戦死した。
選手として成功しただけでなく、人間としても手本になったタル。その人生は、人種や肌の色で人を差別することの愚かさを教えている。
スタジアムでの差別行為をなくす努力だけでなく、差別のばかばかしさを広く社会に訴える積極的な活動が、Jリーグやクラブに求められている。観客がひとりもいないからっぽのスタジアムなど、二度と見たくない。
(2015年3月25日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。