サッカーの話をしよう
No.1027 白黒ボール50年
「サッカーボールを描いてみてください」
そう求められたら、いまでも多くの人が「白黒ボール」を描くのではないか―。
黒い正五角形12枚と白い正六角形20枚、計32枚のパネルを組み合わせることでつくられたサッカーボール。実際に使われた期間はそう長くはないのだが、日本に限らず世界中でいまもサッカーボールというとまずこのデザインが出てくるのは不思議だ。
1963年に西ドイツで考案された。当時までサッカーボールは12枚か18枚貼りで皮革のままの茶色か白だった。
元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さんによればスポーツボールに初めて32枚パネルを使ったのは水球だった。つかみやすくするための工夫だったという。32枚パネルは紀元前3世紀の数学者アルキメデス考案の種類の「半正多面体」の1つ「切頂二十面体(正二十面体の12の頂点を切り落としたもの)」だ。
サッカーボールを白黒にしたのは「夜間の試合でも見やすいもの」という意図だったとどこかで読んだ記憶があるのだが、「当時白黒放送だったテレビで見やすくした」というのが現在の通説だ。
誕生したばかりのブンデスリーガで使用され、ワールドカップでは70年と74年の両大会で使われた。32枚パネルはその後もずっとサッカーボールの主流だが、デザインはたびたび変わった。ワールドカップでの白黒ボールの寿命はわずか2大会だった。
1963年、生まれたばかりの白黒ボールを日本人も目にした。ドイツ遠征中に日本代表が使い、10月に来日した西ドイツのアマ代表も数個の白黒ボールを持参した。
2年後、日本サッカーリーグ(JSL)の初年度スタートに先立ち、常任運営委員のひとり西本八寿雄(古河電工=当時30歳)が採用を提案。日本サッカー協会の猛反対に屈せず使用を断行した。ドイツ製を手本にミカサが製作、後期開幕に間に合わせた。
その日、1965年9月12日、横浜の三ツ沢球技場での「古河電工×豊田織機」では、美しい緑の芝に白黒のボールが映え、スピーディーに動いた。年末の大学や高校の全国大会でも使われ、白黒ボールはたちまち日本中に広まった。
日本においてサッカーという競技が「アイデンティティー」のようなものを確立するのに、白黒ボール以上の役割を果たしたものはない。Jリーグ時代になってからはいちども使われたことがない。それでも、いまも多くの人が「サッカーボールといえば白と黒」と思っている。
きのう都内で、JSL発足50年を祝うパーティーが開かれた。「JSL50年」は「白黒ボール50年」でもある。
1986年 ドイツにて
(2016年6月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。