サッカーの話をしよう
No.1028 フィリピンが勝った
日本代表がイラクに4-0で快勝した先週木曜日、アジアの各地ではワールドカップ・アジア第2次予選の第1節15試合が行われた。そのなかで最も驚いたのは、H組でフィリピンがバーレーンに2-1で勝ったことだった。
フィリピンというと1967年9月に行われたメキシコ五輪予選の15-0が思い浮かぶ。日本を五輪銅メダルに導いたのはこの大量点だった。
フィリピンではバスケットボールの人気が高く、サッカーはマイナー競技のひとつに過ぎなかった。だが2009年にセミプロの「ユナイテッドリーグ」がスタート、育成に力を入れるようになる。近年はフィリピンにルーツをもつ選手のリクルートも進み、現在のFIFAランキングは137位。アジアで中位に位置するまでになった。
それにしてもバーレーンがフィリピンに敗れるとは...。2006年と2010年のワールドカップ予選では大陸間のプレーオフに進出、ワールドカップ出場にあと一歩まで迫った中東の強豪である。
6月11日の試合はフィリピンのホーム。前半はバーレーンが主導権を握る。フィリピンはよく戦い、無失点で耐えたが、攻撃は大きくけるだけでなかなか形にならない。
しかし後半、試合は大きく変わる。フィリピンが自信をもってパスをつなぎ、攻め込むようになったのだ。そして後半5分、左からMFヤングハズバンドがクロス、FWバハドランが決めて先制する。そして9分後にはMFオットのFKからFWパティノが決めて差を広げる。終盤に1点を返されたが、アメリカ人のドゥーリー監督が「全員がヒーローだ」と語ったとおり、会心の勝利だった。
攻撃をリードしたのはイングランド生まれでフィリピン人の母をもつMFヤングハズバンド。チェルシーの2軍でプレーした後、23歳でフィリピンに渡った。本来はFWだが、ドゥーリー監督はこの試合でいきなり彼を3-4-3システムのボランチに置き、ゲームメーカー役を任せた。
守備では日本人の父をもつ佐藤大介が大活躍した。ダバオで生まれ、戸田市の少年団でサッカーを始めて中学1年から6年間を浦和レッズのアカデミーで過ごした。そして仙台大学を1年で中退して昨年3月にフィリピンの強豪グローバルに加入、すぐに代表に選ばれた。まだ20歳ながらこの試合では3バックの左でスタート、スピードと正確なパスを見せ、2点をリードした後には4バックの左サイドバックとしてプレーした。
フィリピンの試合ぶりを見るだけも、アジアのサッカーの急激な変化と成長がよくわかる。「アジア第2次予選」は油断を許さない戦いだ。
(2015年6月17日)
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