サッカーの話をしよう
No.1035 武漢・日本軍・日本代表
武漢へは、上海経由ではいった。
「中国の三大かまど」のひとつとして猛暑で知られる武漢で行われている東アジアカップ。こんな町で8月に大会を開催しなくてもいいのに...と思うが、それはさておく。
上海と武漢は長江(揚子江)で結ばれているが、河口部の上海から中流域の武漢まで飛行機で1時間40分もかかった。およそ1000キロ。中流でも長江は幅1キロ以上あり、大きな船が行き交う。中国の広大さ、奥深さを痛感する。
昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争で、日本軍は上海から南京を経由し、翌年10月には当時中華民国が政府を置いていた漢口(武漢の一地区)を陥落させた。中国政府を率いる蔣介石はさらに1000キロ奥地の重慶まで逃げた。物資の輸送が難しくなった日本軍は深追いすることができず、戦争は泥沼化する。
長江を渡る長大な橋をバスで渡りながらそんなことを考えていたら、北朝鮮に逆転負けを喫した東アジアカップの男子初戦を思い出した。
文字どおりホイッスルとともに日本は勢いよく攻め込み、前半3分には代表デビューの武藤雄樹が先制点を決める。その後も攻めに攻め、相手を防戦一方に押し込む。しかしやがて日本の動きが落ちてくると、相手が活発に動いてチャンスをつくり出す。
それはまるで、南京から漢口へ、そして重慶へと逃げながら日本軍の疲弊を待った蔣介石のようだった。
サッカーは得点を取り合うゲームである。攻撃やチャンスの数でなく、相手ゴールに何回入れるかで勝負がつく。ゴールは動かないから、戦争ほど複雑ではない。
「6月のシンガポール戦ほどではなくても、チャンスはできていた」と、ハリルホジッチ監督が語ったとおり、立ち上がりの日本の動きはとても良かった。初代表あるいはそれに近い選手が半数近くいて、わずか1日しか練習していないチームには、とても見えなかった。
だが試合は90分間ある。気温34.66度という厳しい環境の下で、途中から動きが落ちるのは明白だった。11人ではなく交代を含めて14人で戦うプランと作戦が必要だったはずだ。相手をたたきつぶす強力な武器(決定力)がないなか、90分間の「補給プラン」を欠くチームが負けるのは半ば必然だったかもしれない。
ただ、サッカーは戦争ではない。終わった試合の結果は変えられないが、失敗を取り戻すチャンスはいくらでもある。準備不足と猛烈な暑さを計算に入れ、残り2試合を賢く粘り強く戦い抜くことを期待したい。
(2015年8月5日)
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